空が輝く、という表現はこの季節の空の事ではないだろうか。冬は勿論の事、春でも夏でもこういう印象を受けない。光量の問題なのだろうか、冬は朧気だし、春は頼りなさげで、夏は熱に光が歪められているように感じる。秋はやけに「光」を感じるのだ。目で探す事もなく、両手に掻き集める事もなく、逆に暴力的に射抜かれる事もない光が、其処彼処に及んでいる。
空が輝く、という表現はこの季節の空の事ではないだろうか。冬は勿論の事、春でも夏でもこういう印象を受けない。光量の問題なのだろうか、冬は朧気だし、春は頼りなさげで、夏は熱に光が歪められているように感じる。秋はやけに「光」を感じるのだ。目で探す事もなく、両手に掻き集める事もなく、逆に暴力的に射抜かれる事もない光が、其処彼処に及んでいる。
この二週間というもの、平日は治らない風邪を抗生物質で誤魔化しながらエンヤコラと働き、休日は仕事したり用事があって出かけなければならなかったりして養生する時間があまりないので、日曜の夕刻の頃には本当に倒れるように床に着く。床に着くとは言っても眠ってしまう訳ではなく、意地汚くだらだらと本を読んだりDVDを観たりしているのだが。
しかしこの身体の感じ、とても嫌な感じだ。以前にもこういうのに悩まされた。部屋でじっとしている分にはさほどの事はないのだけれど、外へ出かけてしまうと時間が経つにつれて体調が悪化し、終いには歩き続ける事すら出来なくなる。それで予定を急遽中止して帰宅してしまった事がもある。面倒だな、この身体。でも僕の身体といえばコレしかないので、どうにかして上手く付き合っていくしかないのである。当分の間は摂生された生活を送るしかない。
そんな私の個人的な事情と打って変われば、季節は十分に巡り、籠もった熱から解放された空は澄み渡っている。薄く千切れた細長い雲がぬーっと飛んで去る。一反木綿のように見えて楽しい。夜ともなれば涼しげな風が横町を走り抜ける。薬のせいでぼうっとした頭で、ぼんやりと月を眺めるのも悪くはない。
夜、漆黒の帳に覆われた空に白い雲が浮かんでいる。世界に動きはない。僕は煙草に火を点け、星を探す。と、空の端っこに一点の光が明滅するのを見つけた。緩やかなスピードでこちら側に近づいてくるその光の正体は、果たしてヘリコプターであり、見上げるその姿は深海を遊泳する海老のようであった。光源は一つではなく、透き通るような赤と黄と青の光を、それぞれ違った間隔で明滅させている。
触手を伸ばして何かを探しているようでもあり、寸断なく緊張を張り巡らし、単独飛行を楽しんでいるようでもある。彼はゆっくりと私の真上を通り過ぎた。
夕刻。ビルの屋上から眺める雲には二つの種類が在って、一つは左から右へゆっくりと流れる、天上を覆い尽くすように広がる白い雲。僅かな隙間からは青い空が見え隠れする。もう一つはそれよりもっと低い位置を右から左へと、何処かへと急いでいるような風情で流れる、少し黄みがかった雲の塊が幾つか。高さが違う為に受ける光の種類が違うからなのだろうか。全く別物のように見える。行き先が真逆なのも面白い。
夜。都心では夜でも雲は白い。地上の光を反射して闇に不気味に浮かんでいる。今度は流れる方向は一つだけで、右から左へと雲は流れて行く。量も僅かで、その他は黒々とした闇夜が広がっているだけだ。夜に眺める雲も悪くはない。というより結構好きだ。
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