土塊に埋もれて早数年。秋には降りかかる落ち葉を余す事なく全身で受け止め、冬には凍てつく地面の下に身を横たえ、虫どもが蠢き出す春を寝て過ごし、夏には木陰に身を寄せる。咲かぬが花。土に埋もれたまま青空を夢想する。しかし、決して花びらを持たぬ訳ではない。
土塊に埋もれて早数年。秋には降りかかる落ち葉を余す事なく全身で受け止め、冬には凍てつく地面の下に身を横たえ、虫どもが蠢き出す春を寝て過ごし、夏には木陰に身を寄せる。咲かぬが花。土に埋もれたまま青空を夢想する。しかし、決して花びらを持たぬ訳ではない。
今年の3月に大丸百貨店で開催された展覧会より断然こっちの方が良かった。作品の構成に纏まりがあったし、僕の好きなペンで描かれた線書きの上から水彩で着色するという技法の絵や、四角く色彩を構成するという技法の絵が多かったからなのだが。
これまでに観た事がない絵が多かったので図録を購入したのだが、改めて印刷物の絵と実物の絵の、色味の違いに愕然とする。実物の絵を目の前にして受けた印象がそのまま印刷されている訳ではないのだ。やはり図録は図録でしかない。
例えば「回心した女の堕落」という絵。クレーにしては珍しくヴィヴィットな色を使って描いている。ほんの一部に灰色と黒を使ってはいるが、その他は全部赤から黄までのグラデーション。特に、他の作品では線描きに黒が灰色を使う事が多いが、この作品は線描きも赤で、それは絵の大部分を占める。そんな色構成で描かれた絵は往々にして苛烈な印象を与えるが、この絵は興奮と同時に静寂さをも観る者に与えるのだ。観ていると何故か気持ちが落ち着いてくる。そんな色彩がこの世に在るとは驚きである。
そして、図録で同じ絵を観てみると、その印象はあっさりと消え失せてしまっているのだ。
展覧会の話に戻す。気に入った絵が多かったせいか、会場から離れがたかった。出来る事ならいつまでもその絵の前に居たかったのである。その色彩や造形がこの世に存在し、今この瞬間に自分の目の前に在るという事実がとても嬉しく、そしてそれは此処でしか観る事は出来ない。見物客である一人の女性は、10cm角くらいの小さな絵に顔を近づけながらそっと微笑んでいた。僕は美とはそういうものだと思っている。絵画にしろ彫刻にしろ陶器にしろ文章にしろ音楽にしろ、どうしようもなく、そうである事以外は考えられない存在がすなわち美であるのではないか、と。
それとは別にこうも考える。先ほどの女性とは別の初老の女性は、腕に下げたバッグの中から、手垢のついた、表紙がボロボロになったクレーの画集を覗かせていた。個人に取っての最高の美とは、それは主観に拠るものでしか有り得ないのではないかと。
仕事でだが、小田急線の急行の車両に乗って久しぶりに西へ。平日の午前中とあらば乗客は少なく、座席に座り車窓の風景を眺める。低くなって行く建物。長くなる電線。空は急速に広がりを見せ、車両の中へ差し込む光は量を増していく。窓の外には緑がそわそわと揺れ、小高い丘陵の斜面や頂部に建つ家々は何処かの国の横穴式の洞窟の住居群を思わせる。
それらの光景は次々と入れ替わり、僕は飽きる事なくそれを眺めている。鉄道というのは、そんな風景を眺める為の移動する観覧席のような気がした。何処か目的地に辿り着く為ではなく、数十キロの長さの絵巻を鑑賞する為に移動する観覧席。光の波が漂う車両の中には、取引先に急ぐ会社員が手帖に何かを書き込んでいたり、子供連れの親子が何やらアニメーションの主人公について話していたり、老人が居眠りをしたりしている。僕だけが車窓を眺めている。何かを見い出そうとしているようにも見える。そしてそんな自分を第三者的に感じている僕は、行き先を見失ってしまいそうになっている。
台風に引きちぎられたようにぽつねんと浮かぶ白い雲。周りには輝くばかりの青い空が広がり、その端っこには掃き寄せられたように陰を帯びた雲群が幾重にも重なりひしめき合っている。雲が立体的になってくると夏を感じる。そして、この青さこそが夏だと思うのだ。僕にとっての夏とはこの青さの事なのだ。この空は何処へでも連れて行ってくれるし、何処へも連れて行かない。我々が見るのは熱であり、蜃気楼なのだ。しかしながら、後年思い出すのはその光景ばかりなのはどういう事なのだろうか。幻影が記憶を浸食し水彩色の記憶ばかりが私を埋め尽くす。彼の人は光となりて現れる。
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