DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: August 2004 (page 2 of 3)

Bad Guy / Kim Ki-Duk

 これも娼婦絡みの映画。どうしてそんな映画ばかり観るのか、とか聞いてはいけない。僕だって高校球児の爽やかな涙を見遣りながらコレ書いていて、自分が少し心配になっていたりするのだから。・・・さてこの映画、前述の「歓楽通り」とは少し違う。いやだいぶ違う。主人公はヤクザの男。街で見かけた女子大生に一目惚れをしてしまうが、鼻も引っかけて貰えない。考えた男は女を罠にかけ、自分が面倒を見ている売春宿に身売りさせるのである。そうやって女を身近に置く事に成功する男だが、彼の苦悩はそこから始まる。初めて客を取らされ泣き叫ぶ女を目の当たりにして、居ても立っても居られずに客を叩き出したり、女に暴力を奮おうとする客を袋叩きにしたりするが、女を売春婦にしてしまったのは自分である。何れ女は客を取る事になる。客に買われ、子分にまで買われる女を男は見つめ続ける。たった一言の言葉も発せずに。

 実はこの主人公、全然喋らない。唯一、一場面だけ喋る。その台詞はこの映画の根底に流れる、男の思いを吐き出すものであるが、それさえギドク監督はもまともには喋らせない。簡単には感動なんかさせては貰えないのである。そんなところが私はいたく気に入りました。それと、ジャケット画像にもあるような売春宿の毒々しい原色の照明が美しく、さすが韓国人は原色の使い方が巧いなあ、とか思いました。これのポスターとか無いかな。劇中でエゴン・シーレの画集が突然登場するので何かと思えば、ギドク監督はパリで絵を描いて暮らしていた事があるそうな。

SPO Entertainment によるキム・ギドク監督のサイトSeochon.net による主人公役のチョ・ジェヒョンのページ

Rue des plaisirs / Patrice Leconte

 Amazon.com にも画像が無くて Amazon.fr で探したら見つかりました。しかしそこまでして書きたい事があったのかというとそんな事はないのですが、せっかくなので書いておきましょう。(ジャンプ先は Amazon.co.jp です)・・・戦時下のフランス。娼婦と客との間に一人の男の子が生まれる。彼は娼館の女達に実の息子のように可愛がられ「将来どんな人間になりたい?」との母からの質問に「女の人の世話をしたい。」と答える。後年、そのままその娼館で下働きとして女達の世話をしながら生活する男の前に、ある日、新入りの娼婦が現れる。彼はその娼婦に宣言する。「一生君の世話をする。」と。
 男はまさに女の為に生きる。いつも寂し気な彼女の運命の恋人を捜し、適当だと思われる男と彼女をくっける為に占い師を買収し、出会わせる。その後、その恋人が招く様々なアクシデントを献身的に払いのけ、彼女を人生に成功させる為にラジオ・オーディションに強引に応募し、合格させる。そしてラストはお決まりの唐突な悲劇で物語は終わる。

 僕個人としては、いつも悲劇で終わらせるフランス映画の王道とも言うべき作法が気に入らない。まるで物語を終わらせる為には誰かを死なせなければならないかのようだ。全てとは勿論言わないが、観る映画がこればかりだと、段々観る気が失せてくる。物語=人生と考えるのならば、確かにそうなのだが。多くのフランス映画が何故そうなってしまうのか、その訳を知りたい。調べたりはしないけど。調べようがないし。誰から知らないかな。
 余談だが、私がルコント監督の作品を観るのはフェティッシュな映像を観たいからである。決して悲劇が好きな訳ではない。

生きている / 佐内 正史

 日常の中ではさして気にする事もなく見逃してしまいそうな光景を焼き付けてある。こういう文章は割と彼方此方で目にするのだが、本当にどうでも良さそうなモノを撮っている。ように僕には思える。何の引っかかりもないし。でも何故か気になって観てしまうし、終いには写真集まで買ってしまう。何がどう気になるのか自分でも解らないままに。例えば、森山大道や荒木経惟や中平卓馬の方が僕に取っては解りやすい。対象物の何が気に入って撮っているのかが解るような気がするからだ。しかし佐内正史の撮る写真はそういう事が何も思いつかないのである。思うに、彼は対象物など撮っていないような気がする。対象物と思しきモノの直前に在る何か、空気のようなモノを撮っているような気がする。しかしそれが僕に心地よさ(のようなもの)を感じさせるのは何故なのか、それは全然さっぱり解らないのである。

 少しばかり考えてみると、彼の撮る写真には闇・影(隠喩としての)が無い。全方向からの光に満たされている。今現在目に見えている実体以外には何もない。そう言っているような気がする。汚れも、綻びも何もない清潔な実像。虚飾も欲望も存在しない陽の当たる場所。僕にはそれは空恐ろしく感じる。
 以前、何処ぞの巨大掲示板で書いた気がするが、彼の撮る写真に写り込んでいるのは、黄泉の国から再び戻った時に最初に見る光景がそれであるような、そんな印象を受けるのである。

佐内 正史 Official Site

Dinner Rush / Bob Giraldi

 面白かった。NY トライベッカの人気イタリアンレストランでの一夜での出来事を緊張感溢れる映像でまとめてある。レストランのオーナー、シェフ、副シェフ、ウェイター・ウェイトレス、客、ギャラリーのオーナー、料理の批評家、ギャング、その他。それぞれの事情や思惑が同時に、しかも多方向から織り込まれていく。そして最後にはグレイッシュなハッッピーエンドとでも言いたくなるような終幕。夜が明け、退屈な日常をやり過ごし、そしてまた夜になる頃には再び宴が開かれる。そんなエネルギッシュな映画です。ついでに書くと、厨房で作られる料理がとても旨そうです。リストランテで思いっきりイタリアンを食べたくなりました。あ、でも独りだと厳しいかな。サイゼリアとかにしとくかな。

Staring at the Sea / The Cure

 高校の頃、知人が僕に向かってこう言ったのです。「キュアー聴きなよ。絶対似合うって!」人に音楽を薦めるのに似合うとか似合わないとかの言葉が出てくるのが良く解りません。そして何故か予め用意されていた(このアルバムがダビングされた)カセットテープを渡され、僕は家でそれを聴いたのでした。以前にも書いたかも知れませんが、僕はその中の " Boys don’t cry " が凄く気に入った為、それから他のアルバムレコードを次々に借りてダビングし、ひたすらに聴きまくっていたのでした。間もなく、根本が空疎な人間がよくやるように、僕は The Cure の中心人物 Robert Smith の格好を真似るようになりました。
 さて、ここで一つ疑問が。僕が彼を真似て細いブラック・ジーンズを穿いたり、白いリーボックのハイカット・スニーカーを履いたり、白いTシャツの上に黒のジャケットを羽織ったり、ダイエースプレー使って長い髪の毛を逆立てたり、瞼にシャドーを入れたり、口紅を引いたりしたのは、果たして自分から積極的にやっていたのだろうか。このアルバムを改めて聴き直している内に様々な記憶が蘇ってきました。

 そもそもこのアルバムが人から借りて聴いたのが最初だという事もさっき思い出した事で、それまですっかり忘れていました。蘇った幾つかの記憶の映像の中にこういうのが在ります。前述の知人が「・・・持って来たよ。」と言いながら学生鞄を開け、中から口紅とアイシャドーを取りだし、僕の唇に赤い色を引き始めました。背景は・・・教室です。二人とも制服を着ています。何でしょうかコレは。妙に倒錯的でエロい光景です。これは僕の記憶なんかではなく妄想なのでしょうか。しかしよくよく考えてみるとこの線が一番妥当なのです。田舎の公立高校に通う男子高校生が口紅なんか普通持っていません。我が家は男兄弟です。母は5年に1回くらいしか口紅を付けません。父が持っていたのなら、それは怖いです。なので間違いないでしょう。
 ここまでの流れで大凡判ると思いますが、その知人は女性です。同級生でした。友達ではなく知人と書いたのは、実は一瞬付き合いそうになりはしたが、結局はそうならなかった微妙な位置に立つ人だったもので。彼女を思い出す事も殆どなく、顔を朧気に覚えている程度でしたが、先ほどついにフルネームまで思い出してしまいました。彼女と福岡駅のホームを歩いていた事も思い出しましたが、その前後が思い出せません。一体何をしていたのでしょうか。思い出せなくてちと悔しい。あ、でも Ecoh & The Bunnymen のライヴには一緒に行った気がする。高校を卒業した後に、彼女とは街で偶然に出会った事がありますが、その時の話は少し悲しくなるのでやめておこう。

The Cure Official Site

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