血縁で、そりの合わない相手とは、出来るだけ傷つけたり傷つけられたりしないように、ある程度の距離を保ったまま付き合っていくしかないのだろうな。いずれどちらかがこの世を去るまで。
血縁で、そりの合わない相手とは、出来るだけ傷つけたり傷つけられたりしないように、ある程度の距離を保ったまま付き合っていくしかないのだろうな。いずれどちらかがこの世を去るまで。
仕事が多忙を極め、その後の震災の余波により一月も何も書かないでいた。なーんにもする気になれなかったのね。そして、まだ震災後の影響は消え去ることなく続いているし、今後もどういった形で新たな影響が出てくるのか予断を許さない状況ではあるが、気持ちとしては落ち着いてきた。それはそれで良い事ではあるが、僕個人としては良くない面も現れてきた。再び、である。
緊急を迫られた状況では生き抜く事に集中せざるをえないので、厳しいなりにも何ら問題無く毎日を過ごしていられたのだが、一旦ではあるが押し迫った危険を回避する事が出来、心の裡に余裕を持てるようになると、それまでの緊張が突如として緩んでしまうせいか、こんな言い草も酷いとは思うが、何だか放り出されたような気分になってしまう。そして。
はて、僕はなんで生きているのだろうか。
漠然とそうした事を思い出してしまうのだ。霧がかった頭を振って考えてみても、そこには何も無い。理由も、目的も、何かしらの事情もない。勿論誰かに強いられている訳でもない。なーんにもない。確実に言えるのは、「未だ死んでいないから、生きている」そういう状態にある、というだけの話だ。良くもないし悪くもない。ただただ現実が目の前に広がっている。非常に残酷で、クリアな世界だ。
いつもではないけれど、新しいものや刺激のあるものを受けつけなくなる時期がある。
例えば、週末に映画のDVDでも観ようとレンタル屋に行くとする。しかし、棚に並んだ様々なタイトルを眺めてみても、どれも観ようという気になれない。自分で映画を観たいと思って行ったのにである。そもそも、ホラーやスプラッタは好きではないし、そんなものをわざわざ時間を割いて観る気はないので予め除外しているが、この場合はそういうもの以外でも食指が動かない。観ても良いと思えるのは既に観た事のある映画。内容を既に知っているものに限れらる。要は、想定外の物語を観る気になれないのだ。
また別な例を挙げると、散歩をしたいと門を出ても、今日はこっちの道を歩いてみようと、余り通らない道を選んだりはしない。いつも通る道をいつものように選んでしまう。その道がどこからどのように曲がって、どこに何が在るのか熟知している道だ。
考えてみればその感覚が生じる分野は多岐に渡る。新しい本、新しい音楽、新しい食べ物、新しい人、その他色々、とにかく自分の知らないものに関して、それを受け入れる余裕が持てないのだ。
こういう事は自分の生来の性格的な傾向なのだと思っていた。もしくは少し疲れているか。しかし今日今更ながらに気付いた。これは軽い鬱状態なんじゃないだろうか。僕の最も酷い状態の時にはNHKの教育テレビしか観れなかった。嘲笑や怒りや悪意など、精神的に圧迫する要素を含んだ番組を観る事が出来なかった。明るく、予定調和に収まる物語以外は受けつける事が出来なかった。
今はそれほどの事はないにしても、その入口に立っているような気がする。何かひとつ踏み外せば、闇の中へ真っ逆さまだ。これは注意深く過ごさねばならない。そうなってしまったのは、風邪ひいたり事故に遭ったりするようなもので仕方ないが、このままで良いはずはない。
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そしてこの度気付いたのはそれだけではなく、そういう状態に、頻繁とは言わないまでも、気付けばなってしまっている己の精神的強度の脆弱さ。これは少なからずショックだった。全然平気で暮らしているものだとばかり思っていた。子供の頃から身体が若干弱く、何を考えたのか父親に赤蝮ドリンクとかキヨレオピンを飲まされていた。それが功を奏したとは思えないくらい今でも身体は弱いと思っているが、精神的な面に関してもそうだったとは思わなかった。己を過信するのは良くない。可能域で暮らすのが賢明だ。
対策を考えなければ。そういった時期を出来るだけ少ないしたい。
毎週末によく利用するパン屋が一軒在る。以前はもう二軒ほど近所に在ったのだけれど、そのどちらも建て替えの為なのか、それとも単に店を閉じただけなのか判らないが、三年ほど前に無くなってしまった。なので近所にはもうここしかないのである。一応イトーヨーカドーにパン屋は入っているが、どうもなあ、独立した店舗でないと「パン屋に行く」という行為に伴うウキウキした感じが出ない。だから行かない。
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そのパン屋に特別なところはない。個人経営の小さなガラス張りの店舗で、レジの横から工房の中が覗ける。何か特化した種類のパンに拘っている訳でもなく、まんべんなく揃っている。半年に一度くらいのペースで新作のパンが売りに出されるような、絵に描いたようなパン屋である。
しかし、目に見えないところで少々変わったところがある。昔、僕が通い始めた頃は、店内には有線放送で適当な、ほぼアメリカの歌謡曲と化したR&Bが流れていたように思うが、数年前のある日、その有線放送が撤廃され、代わりに古いラジカセが棚の上に鎮座していた。聞こえてくるのは Michael Jackson 。懐かしい音質でマイケルが Billie Jean を歌っていた。
それから数ヶ月間、僕がそのパン屋を訪れる度にマイケルが歌っていたのだけれど、そのうちに今度は Stevie Wonder が歌い始めた。僕の店での滞在時間はものの数分であるので、どのアルバムであるかまでは判らなかったけど、Ribbon in the sky が流れていたのを覚えている。
そして、それから更に数ヶ月経ってラジカセが姿を消した。代わりに無印良品で売ってそうな、インテリア化した白いCDプレイヤーが置いてあった。流れているのは相変わらずマイケルとスティービーだったので、CDで買い直したのだろう。しかしこれは一体誰の趣味なんだろうな。フツーに考えてオーナーの趣味なんだろうけど、工房やレジに居る人のうち、誰がこの店のオーナーなのか見当が付かない。
そんな事を思いながら、引き続き毎週末に通っていると、数ヶ月にに一度くらいのペースでレパートリーが増えて行った。The Isley Brothers 、The Supremes 、Marvin Gaye 、The Temptations 。この辺りまできて僕はようやく思い付いた。これって・・・全部、デトロイト発祥のモータウン・レコードの連中じゃないの? すると、ここのオーナーはモータウン・サウンドのファンなんだな! 面白れえ!じゃあ!なんなら店の名前も「モータウン・ベーカリー」とかにすれば良いんじゃない? そうしようそうしよう!
とか言って一人で盛り上がっていたのだけれど、それから暫くしてその妄想が崩れた。ある日店に入ると、Ray Charles が歌っていた。何となく違和感を覚えて部屋に戻ってから調べると、アトランティック・レコードだった。よくよく考えれば Billie Jean はモータウンから出してないし。ううむ、でも、まあ一つのレコード会社に拘る理由もパン屋にはないし、古いR&Bが好きって括りで良いんじゃないかな。などと余計なお世話過ぎる妥協点を見いだした僕は、安心してパン屋に通い続けた。
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で、そして今日、その括りさえも崩れた。
自動扉が開いて僕の耳に聞こえてきたのは Big Punisher の Still not a player 。まさかのヒップ・ホップ・チューンである。どうした? 何があったんだオーナー? これからこの店は一体どうなってしまうんだ!
僕は心配である。その内にこの店は看板を艶めかしく光るネオンに取り替え、入口横にはビッグバードの等身大フィギアが立って客を出迎え、店員は全員日サロで身体を焼いて、ブカブカのヒップホップ・スタイルか、身体に張り付く感じの花柄の開襟シャツやストライプのパンタロインパンツを穿いてアフロな感じで、陽気に接客してくれたら楽しいな。などと今では妄想している。
昼休み。小諸蕎麦でうどんでも啜ろうかと、寒風吹きすさぶ中マフラーを首にぐるぐるに巻いて道を歩いていると、向こうから三輪自転車に乗った年輩の女性がやってきた。自転車の前部に固定されたカゴには、色とりどりの毛布やらタオルケットやらが無造作に詰め込まれており、運転している女性自身もこれまたいろんな色柄の服を重ねて着込んでいるので、まるで布の行商のようである。
そんな姿をぼんやりと眺めながら歩き続け、二メートル先まで近付いてようやく、カゴに詰め込まれた毛布の中から小犬が顔を覗かせている事に気がついた。チワワだろうか。体毛が短く顔が若い。彼(若しくは彼女)は、僕の傍らを通り過ぎる頃には毛布からすっかり頭を突き出し、この季節にはめずしい柔らかな陽光を心地良さそうにに受け止め、冷たい風に眼を細めていた。
やがて走り過ぎる彼らの後ろ姿を見送りながら僕は考えた。あの役がやりたい。つまり、あの小犬に成り代わりたい。何というか、あの毛布に埋もれたカゴの中がとても居心地の良さそうな場所だったのだ。もし将来、僕が年老いて足腰が弱りきって歩けなくなったら、誰かに介護を受けながら、車椅子に乗せられて穏やかな冬の光の中を散歩するのも悪くないな、と思った。
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