DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: Days (page 2 of 35)

そこには光があった。

 一月前の事。叔父(母の弟)から、祖母が調子を崩しているとの連絡があった。御年百を超える祖母は長らく介護施設に入所しているのだが、少し前から物が食べられなくなって来ているとの事だった。そして当人も、自分もそろそろみたいだ、というような事を口にしているらしい。
 前回祖母を見舞ってから数ヶ月が経っていた。理由は家業が忙しかったり、父の容態が悪くなっていたり、とにかく母が行きたがらなかったりと理由は様々だ。その間にも、定年を迎えたばかりの叔父は祖母の様子を伺いにせっせと通い詰めており、時折近況を知らせて貰っていた。そういう状況なので母は何処か安心していたのだと思うが、さすがに今回はすぐに見舞いに行くことに決めたようだ。そして今回は父も同行すると言う。僕ら兄弟は、母が見舞うときには誰かしらが同行しているが、父はもう長く会っていなかったはずだ。しかも、自分もすでに棺桶に足の小指の先くらいは突っ込んでいるような状態なので、何かしら思うこともあったのだろう。
 恐らく祖母は、その施設の中では一番年上である。しかし取り分け元気な方であるようで、自分で歩いて用は足せるし、食堂へも自分で行ける。同施設内には祖母よりも10歳20歳若くても、すでに車椅子を使わなければ移動は出来ず、食堂のテレビの前で死にそうな顔をしながら過ごしている老人がたくさん居た。「あの人達と一緒にいたら、こっちまで辛くなってくる」と祖母はよく溢していたらしい。
 しかしそれは以前の話だ。今ではそうは出来なくなってしまったのだ。知らせを受けた三日後に、我々家族は祖母を見舞うべく車に乗り込んだ。

 祖母が入っている施設は筑後川の側に在る。我々は県道を北上した。その日は天気が良く、県道の両側に建ち並ぶ家々や商店について話が弾んだ。あれは誰それの家だとか、あの店は以前はなかったとか、かつてのあの店は無くなって残念だとか、父母を中心にして、僕や弟が時折意見を差し込む感じでずっと話していた。これから親戚の見舞いに赴こうとするような神妙な雰囲気ではなく、僕ら家族は浮かれていた。父があちこち手術を繰り返し、歩行が困難になり、排泄にも少し支障を来すようになってからは遠くまで出かけることを控えていたのだ。なのでこれは久しぶりの外出で、しかも家族揃って(実際には末弟がいなかった。しかし彼は今フランスに住んでいるので不可能)の外出である。
 やがて、父が手術で何度も入院した医大の横を通り過ぎ、堤防を上って橋の上に出た。途端に視界が開け、河川敷を含む河川の全貌が眼前に広がった。青空と、輝く川面と、芝生で覆われた河川敷しかない光景であったが、とても美しい景色だった。僕ら家族は感嘆の声を上げ、「近所の川じゃあこうはいかないよね」とか「田主丸の方にもこんな景色を見る事が出来る場所があるらしい」とか「今度は是非ともそこに行きたいよね」というようなたわいもない事を、実際には方言で喋った。
 僕は心密かに打ち震えていた。さっき過ごしたほんの一瞬。あれは恐らく僕が小学生の時以来初めて経験する、我が家族の最も幸せな一瞬であったであろう。我が家は、僕ら兄弟が思春期を迎えた頃に意思の疎通が行われなくなり、共に過ごす事が困難になってしまったので、その後はロクな時間を過ごして来なかった。大人になったらなったで、住む場所がバラバラになってしまったので、たまの帰省で顔を合わせる程度だった。だからこんなにも心から和やかに笑い合う日が訪れるとは思ってなかった。僕が三年前に帰福した理由の一つに、もう一度家族というものをやり直す、というと大袈裟になるが、短くてもいいから家族らしい時間を過ごしてみようと思ったのだった。僕はそうして来なかった事がずっと気掛かりであったし、なんと僕はそれまでの二年ほどは家族と音信不通状態であったのだ。それまでの自分の行いを反省をしたというより、自分のやり残している事をようやく実行する気になったという感じだった。なので今回は、僕の想っていた事を少し実現出来たようで嬉しかったのだ。つくづく末弟が居なかった事が残念で仕方がない。

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 祖母は今日、介護施設から病院へと転居した。施設は看取りまですると言っているようだが、祖母は内蔵に病気を抱えているので、その点の医療的な対応が難しいとの判断で病院へ移る事に決めた。要は終末医療である。祖母の、百年以上も生きた女性の人生がもうじき終わる。

とある秋の日の散歩道

 先々週の月曜日だったか、午前中にウォーキングに出た。気温は高めで明るい陽差しの下、いつものように農道(と書くと畦道を想像するかも知れないがちゃんとアスファルトで舗装されている)を西へ抜けると、近くの幼稚園の子供達がどうやら散歩中であるらしく、みんな赤い帽子を被ってひよこのように歩道の一角に整列していた。僕は保育士や園児達と挨拶を交わしながら行き過ぎたが、道の脇には黄色く花を付けた背高泡立草が立ち並んでいた。
 それから僕は別な農道に入る。それは昔から在る道で、僕が子供の頃にはまだ舗装されていなかった。田畑の広がる地域を蛇行しながら南北に延びていて、その途中に今はもう使われていない資材ゴミ焼き場が在る。燃え残って積み上がった資材が生い茂った植物で覆われていて山のように見える。そしてその中には野生化した青紫色のアサガオが混じっていた。その農道は橋のたもとに繋がっており、河岸には釣り人が二人、少し離れて坐って川面に糸を垂らしていた。子供の頃の記憶を辿ると、釣れるのはコイかフナかタイワンドジョウのはずである。装備を見る限りでは、フナ釣りだと思われた。
 今度は川沿いの道を歩く。珍しく透明度の高い川の流れを覗き込むとコイが群れて泳いでいた。暫く歩くと二本の川が合流する場所があり、川面には十数匹のカモが泳いでいた。先頃まで居たシラサギやアオサギと入れ替わるように彼らはやって来る。てんでに泳ぎ回る彼らは楽しそうだ。
 暫く歩いてさっきのとは別な橋を渡り、対岸に沿う道を神社へ向かって西へ歩く。西鉄のガード下を潜り、色づき始めたイチョウの木を見上げ、駐車場から境内へ入る。石段を昇り山門を潜って本殿の前へ進み出る。賽銭を箱に向かって放り、鈴を鳴らさず(わざわざお出で頂くのは気が引けるような気がして)、二礼二拍手一礼。なかなか良い音が出せない。願い事をするのはどうにも照れる。
 その後境内を一回りして、山門の横を通り、鳥居で一礼して境内を出るとそこはまた別な橋(町を貫く県道が走っている)のたもとで、僕は再び橋を渡り、今度は東へ向かって川沿いの道を歩く。そしてすぐさま踏み切りの手前で右に折れ、坂道を下る。路地を抜けると、そこは僕が小学生の頃に住んでいた地域だ。なので見覚えのある古い家と、建て替えられた目新しい家が混在していて不思議な感覚を覚える。昔は時計屋・肉屋・魚屋・花屋・薬屋・醤油工場・ピアノ教室が建ち並んでいた通りに、今では醤油工場しか残っていない。僕は踏切へと向かって歩く。ちょうど来た二両編成の電車が通り過ぎるのを待ちながら、子供の頃から在る人家の手入れされた生け垣や庭木などを眺める。踏切を越えて真っ直ぐ歩いて行くと、家族が次に引っ越した家が在った地域に入る。実際には脇道から脇道へと入って行った先に当時住んでいた場所が在る。家屋自体はもう取り壊されているが、土地はそのままだ。
 脇道へは入らずにそのまま進むと、幼馴染みの家が左手に在る。そしてその家の前から右に折れて路地に入る。かつてその路地沿いには古い市営住宅が建ち並んでいた。建て替えの計画が進んでいて、今では三分の二くらいが取り壊されて空き地になっている。間取りは2DKくらいだろうか。小さな家だが、どの家もよく手入れが為されている。猫の額ほどの庭にも色々な植物が植えられていて、季節毎に楽しませてくれる。僕個人からすれば何故そのままにしておかないのかと思うが、古いままだと管理面で何かと不都合が出るのだろう。
 その道は駅へと向かう。しかしそのまま素直に繋がってはくれない。突き当たって右折してすぐに左に折れると、ようやく小さなロータリーに出るのだが、その手前に菜園が在る。いつ見ても雑草の一本も生えていない、手入れのよく行き届いた菜園だ。その日は主の老夫婦がサツマイモを掘り起こしていた。丸々と太って美味そうな芋であった。いつもは夫か妻のどちらかしか見かけないが、今日は二人揃っていた。菜園の敷地内に作業小屋を建てて、道具置き場にしたり休憩所にしたりしているようだ。農作業着も何だか小綺麗にしている。
 それからロータリーを渡り、駅前のマンションの一階に入った幼稚園の前を横切って脇道に入る。一軒家やアパートが立ち並ぶ区域ではあるが、心療内科の医院も在る。アパートの駐車場から一台の軽バンが出て来る。車の後部に資材や工具を積んで、屋根には脚立を二台乗せて、二十代であろう青年が二人、それぞれ頭にタオルを巻いて乗っている。出て来たアパートで、朝一で作業をしていたのだろう。ツナギの袖を捲り上げた腕でハンドルを捌き、意気揚々と走り去っていった。
 僕は彼らを見送りながら南へ歩き続け、突き当たりの道路を渡り、自宅へと帰り着いた。気温と、光の加減と、道々で目に入る色彩と、人々の穏やかな動きが見事に調和した、とある秋の日の散歩道であった。

平成二十七年正月記

 正月は二日から寝込んでいた。元日の午前に末弟の家族が埼玉へ帰り、やれやれ静かになったと午後を静かに過ごしていたのだが、夜になって急に身体が疲労して耐え難くなったので早めに床に入った。そして翌朝は頭と喉と背中と腰が痛くて起き上がれなかった。熱はあるがさほどでもなく、計ってはいないが恐らく38度少しくらいなものだったろう。大晦日辺りから咳が少し出てはいたのだけれど、突然の災厄であった。

 そこまではたまにある事なのでどうでも良いのだが、三日ほど寝込んだうちの前半は、覚醒した状態と昏睡した状態を行ったり来たりしながら長い時間を過ごした。時間の経過が感じられたのは、目を覚ました時に気付く部屋に差し込む光の量が変化するせいであって、痛みと苦しさに荒く呼吸しているだけの存在と成り果てていた自分には何も考える事すら出来なかった。ただし、目をつむってしまうと瞼の裏に映像のようなものが見えた。それは健常な時でもたまに見える抽象的な色彩パターンではなく、やけにリアルな具象ばかりであり、大きな意味でのパズルのようなものだった。鉄片を切り取った複雑な形のジグソウパズルのようであったり、悪質な人々であったり、文字としての恨み辛みを繰り返す言葉だったりした。それが何かの答え合わせをするかのように二つのものが組み合わせを確かめ、大概は上手くいかずに次のものに入れ替わった。それは4分の1拍子くらいの速度で入れ替わり、それがずっと続くのだ。ああ、とうとう頭がおかしくなったのかと思っていると意識が消える。その繰り返しだった。途中何度か家人から声を掛けられ、生返事をするという事を何度かしている。差し入れて貰った果実を食べたり、ポカリスエットを飲んだりもしていた。

 それから二日目の午後に目を覚ますと身体が随分と軽くなっていたので、どうにか起き上がって台所へ行きマンゴージュースを飲んだ。その時に気付いたのだけれど、口の中からフリスクの破片のような白い物質が驚くほど出てくるし、鼻をかめば血の混じった地獄絵のような粘液が出てくるし、下唇の皮が痛みもなくペロリと全部剥がれた。一体自分はどうしたのか。もしかしたら本気でヤバかったのではないか。考えると恐くなるので自室に戻って再び床へ戻った。身体を横たえて目を閉じると、瞼の裏の映像は見えなくなっていた。僕は深く安堵し、今度は長く眠った。
 しかし睡眠は浅かったようで、今度は夢をいくつも見た。それは映像の断片が脈絡もなく繋ぎ合わせられているようなもので、陰影が強く、色彩が派手な映像だった。しかも物凄く解像度が高くて、思わず(夢の中なのに)眼を凝らしたり前のめりになってしまった。内容は殆ど覚えていないが、人や風景だったような気がする。とても美しい映像だったと思うが、いささか疲れる夢だった。

 現在では完治はせずともだいぶ復調している。思い返せば珍しい体験だったので多少面白く感じるが、二度は御免である。初夢が一富士二鷹三茄子どころか、禍々しい魑魅魍魎のパズル絵だったとは恐ろしい。この体験が厄落としにでもなってくれれば良いと願うのと同時に、後から見た夢のように刺激的で美しい光景に自分の現実が飲み込まれる事を願ってやまない。

Cafe LEE

 数日前に見た夢の話。

 とある街の繁華街の裏通り、例えるなら、通りの空間の狭さと人通りの多さは新宿東口くらいの感じで、雰囲気は三宮辺りの小洒落たものだ。その通りの角を曲がってすぐの場所に喫茶店が在る。外壁は古ぼけたレンガのタイル貼りで、左側に位置する入口へは階段を二つ登る。狭い踊り場のような空間が在り、奥まったところに分厚い木製の扉。これも古ぼけていて、はめ込んだガラス窓から店内が伺える。その入口の扉の左側の壁、ここもレンガタイル貼りであるが、そこに高さ100mmくらいの大きさの真鍮の切り文字で「 Cafe LEE 」と屋号が貼り付けてあり、足元には観葉植物の鉢植えが置いてある。そして入口の右側には、道に面した外壁が600mmほど在り(柱の部分であるのだろう)それから更に右側は床から天井までの、黒い鉄製の格子枠にはめ込まれたガラス窓になっている。
 僕は学生時代にこの店に入り浸っており、社会人となってからも度々訪れていたようだ。そして今回は、閉店パーティー(とは言っても、通常の営業時間で、特別なメニューが追加される程度)が催される知らせを受けた僕は久しぶりに顔を出しに来たという訳だ。入口の外には小さなスタンドタイプの灰皿が置いてあって、そこで二人の年若い顔見知りが煙草をすいながら談笑していた。僕は二人に声を掛け、二言三言の言葉を交わして中に入った。

 入口の扉を開けると正面に木板の狭い壁が在り、其処には2号キャンバスくらいの小さな、額縁に納まったルオーの宗教画のような絵が飾ってある。その壁の向こう側、奥に向かって右側には5人分のカウンター席が列んでいる。木壁の左側にはスイングドアが在り、その奥が厨房だ。コンロが二つと、その横のステンレス製のキッチンカウンターの上には何本ものサイフォンと白いカップと皿が所狭しと並べてある。通常この店では、珈琲や紅茶と幾つかの銘柄の麦酒とグラスワイン、軽食としてサンドイッチやケーキ、ナッツ類しか出していないので、厨房も簡素だ。
 そして店の右側には、表に面した窓際には二人掛けのテーブル席が三組、奥側の壁に沿って四人掛けのテーブル席が三組在る。テーブルも椅子もそれぞれに、これ以上想像つかないくらいに何の変哲もない形状の、これまた古ぼけたものだ。何十年分もの傷が刻み込んであり、染みもグラデーションのように拡がっている。客席の突き当たり、表の通りから見れば一番左には出窓が在り、ステンドグラスがはめ込んである。
 フロア全体は木製の床で、人が歩けば靴音が響く。表通り側の床から天井までのガラス窓は固定されて開けないが、その上部に排煙窓が在り、春や秋の過ごしやすい季節には空調を止め、そこを開け放っている。天井も高くて、二基のサーキュレーターがゆっくりと回っている。店内に流れる BGM は音を絞ったジャズのみだ。

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 僕が店に入り、ちょうど出くわしたマスターに挨拶をし、他に常連客が来ているのか訪ねると、テーブル席から学生時代の友人が声を掛けてきた。窓際の席に着いて友人とあれこれ話していると、ポツポツとかつての常連客が店に入ってきた。奥の席に座って、マスターと話している僕と同年代の女性客には見覚えがある。カウンター席で喋っている老境に入った二人の男性は、かつても同じようにその席で話し込んでいた二人だ。その他にも、よく知る者、よく知らない者、初めて見る者、多くの客達が入れ替わり立ち替わり店に入ってきては、珈琲や麦酒を呑んだり、特別メニューのピザやキッシュを食べ、マスターや歴代のウエイトレス達と言葉を交わしていた。

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 以上、それだけの夢なのだけれど、情景描写と空間認識ばかりの夢というのが珍しいので、記録しておく。

高熱の思い出

 僕の平熱は36.2度などその辺りで、割と低めである。そのせいかどうかは判らないが、熱が出にくい体質であるようだ。風邪をひいて熱を出したとしても37度前半などで、滅多な事では38度までは上がらない。そもそも風邪をひいても熱を出す事が少ない。しかしそのせいだろうと思うけど、治りにくいし、口唇ヘルペスが出来たりする。どちらかと言えば厄介な体質である。しかしそんな体質の僕が過去に一度だけ39度という大台を超えた事がある。今回はその時の話。

 あれは随分と昔、2000年にはなっていなかったと思う。金曜日の夕方に寒気を覚えたが仕事が終わらず、夜ともなればとうとう悪寒と頭痛がし始めたので帰宅し、夕食も摂らず風呂にも浸からずにそのまま布団に潜り込んだ。酷い状態だったが、明日一日寝ていればどうにかなるだろうと高を括っていた。しかし甘かった。翌朝僕は、全身の痛みと共に目を覚ました。何がどうなっているのか判らないが、体中が痛くて起き上がれないし、頭部の中心から熱を発しているようで意識も混濁しているようだった。這うようにして体温計を探し、計ってみたところ39度を越えていた。これが39度の世界か。そんな事を考えながら、数分の後に意識を失った。
 その後何度か同じ事を繰り返した。意識はぶつ切れなので時間の感覚はない。しかし窓の外から黒夢の曲が聞こえていたのを覚えている。黒夢を知っている人は想像出来ると思うが、高熱にうなされて目を覚ます度に黒夢の曲を聴かされるのである。一体何の呪いなのか。当時僕が住んでいたマンションの斜向かいに古いアパートが在り、そこには近くの新聞販売店の従業員達が住んでいた。その後にもそのアパートの一室から黒夢の曲が漏れ聞こえていたので、その日もそいつが流していたのだろう。それにしても大音量で一日中となると迷惑極まりないが、こちとら重病人である。どうする事も出来ない。(因みに、窓を開け放っていたところをみると温暖な季節だったのだろう)
 更に翌朝日曜日。夜が明けた直後のようでまだ薄暗い時間に目を覚ました。すると外から自家発電機のようなディーゼル音が聞こえてくるので、何とか身体を起こした僕は窓の外を覗いてみた。二階から見下ろす道路には誰も歩いておらず、ディーゼル音だけが聞こえてくる。暫くまっていると、全身白い衣服を身に纏った二人の女性が、蒸気のようなものを噴出している機械を載せた荷車を曳きながら歩いてきた。蒸気は消毒液の匂いがしていた。僕は「保健所の職員の方が消毒作業をされているんだな。ご苦労様だなあ」などと思いながらその光景を眺めていた。女性達はマスクのせいでくぐもった声で何やら話しながらゆっくりと歩き、やがては煙った道路の先に消えて行った。どことなく幻想的なその光景を見遣った後、起き上がっている事に疲れた僕は再び布団に潜り込んだ。
 その後も目を覚ましては寝てを繰り返して、その日の夕方には随分とマシになり、コンビニと薬局から当座を凌ぐ物を買ってきて、翌月曜日には出社したと思う。若かったせいだろうか、よくそんな事が出来たものだと思う。今だったらきっと死んでしまう。

 以上が僕が人生最高の熱を発した時の思い出話なのだが、それを数日前、柔らかな陽差しの中を散歩していた時にふいに思い出した。そして一つの疑問が頭をもたげる。あの二人の女性は実在したのだろうか。
 というのも、15年以上も前だとは言え、何処かの機関がそのような方法で消毒作業をしていたのだろうか。方法として古臭い気がするし、あの方法だと消毒されるのは道路際までである。そんな対処は有効なのだろうか。そんな事を考えたからである。そもそもあれは何の為の消毒作業だったのだろう。その前後に何かしらの感染症が蔓延していたからと今まで僕は考えていたが、そう言えばそんな話は何も聞いていない。僕が患ったのがインフルエンザだとして(結局医者にはかかっていない)、その対処にそんな作業をするものなのだろうか。「保健所 消毒液散布 白い衣服」などで検索してみたが、なにもヒットしない。
 そんな事を考えていると段々不安になってきた。今まで15年以上もその事に何の疑問も持たずに過ごしてきていたので、自分の思いつきなのに驚いた。もし、もし仮にあの光景が幻視だとすると、もしかして僕は死にかけていたのだろうか。おまけに、あの二人の女性の白ずくめの姿が本当は白装束であったような気もしてきた。今更だが、そうでない事を願う。今は元気なのだからそんな事はどうでも良いだろうとも思うが、自分が死にかけていたとは余りショックだ。春の訪れにすっかり綻んでいた気持ちが、すっかり異世界に紛れ込んだような気分だ。

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