昔、通っていた小学校隣の寺の参道の脇に当学校生徒目当ての駄菓子屋が在った。参道の砂利道から右へ逸れる石段が在り、その先に木板の壁の小さな家屋が建っていた。入口にはガラスがはめ込まれた木製格子の引き戸が在り、それを開けると狭い店内に様々な駄菓子が所狭しと並べてあって、その奥に店主である老婆が鎮座していた。右側には簡素で狭い座敷が設けられていて、そこで子供達が飲み食い出来るようになっていた。僕らはなけなしの小遣いを握りしめ、毎日のようにその店で買い食いをしていた。
そして僕が高学年に上がった頃の或る夕方、僕は寺へ向かってその参道を歩いていた。恐らく友達と境内で遊ぶ約束でもしていたのであろう。すると、駄菓子屋へ登る石段の脇に転がっている大きな岩の上に小さな男の子が座っていた。制服を着ていたので(小学校に制服はなかった)、かつて僕も通っていた小学校の隣の保育園に通う子だと思う。その男の子は片手にジュースの瓶、もう片方の手には菓子パンを握ってた。身体の小さな幼児であるが故、それらを落とさないように手に「持つ」というより「握りしめている」という印象があった。そして彼は瓶の飲み口を自分の唇にあてがい、ごくごくとジュースを呷って飲み干した後に、大人が仕事後の最初の麦酒を一口飲んだ後に漏らす溜息のように「はぁ〜あ」と一息ついた。よほど美味しかったのだろう。念願の一本だったのだろう。彼はとても嬉しそうだった。
その光景を見ていた僕は何とも言えない気分になった。切ないというか何というか、とにかく説明の出来ない感情に襲われたのである。当時はもちろんの事、今でもそれを巧く説明する事は出来ない。自分よりもずっと若年の存在であったから保護者的な気分になったのかも知れないと考えもしたが、当時は自分も保護を必要とする存在でしかなかったし、知らない子なので何の思い入れもない。何かしらの努力の末に望んだものを手に入れた物語に対する感動なのかとも考えたが、僕はそんな事情はまったく知らないし、当時の僕がそんな感覚を持っていたのかは甚だ怪しい。僕がその時に感じたソレが、一体何だったのか解らないままここまで来た。実に不思議な気分である。
★
それから20年後、或る夜僕は池袋のシェイキーズに居た。当時の恋人と一緒に遊んだ後、夜になってハラも減ったのでピザでも食べようとその店に入ったのだ。その時僕らの隣のテーブルに20代半ばと思しき太った女性が座っていて、ピザを美味しそうに頬張っていた。その姿を見た僕は、そこでまた溜まらない気分になってしまって、それ以降その女性の事が気になって仕方が無くなってしまった。彼女の満面の笑みや、ピザを口へと運ぶうやうやしい仕草を見て僕は、普段生活費がカツカツで週末に大好きなピザを食べるのを唯一の楽しみとして生きている人なのだろうか、とか。普段はダイエットに勤しんでいるがとうとう抑えきれずに食べに来たのだろうか、とか。結構失礼な事を考えていたと思う。しかしそれと同時に、向かいの席に座る恋人にその事を話す気持ちの余裕は微塵もなく、見てはいけないものを見てしまった、或いは決して邪魔をしてはいけない、そんな事を考えながら胸が締め付けられる思いに堪えていた。
書けば何か解るかも知れないと思って書き始めたこの記事だが、やっぱりよく解らない。人間の希求に対する自分の反応の仕方なのかなとも考えたが、サンプルが少ないせいかどうにも腑に落ちないし、そんな曖昧な自分の感覚は信用ならない。相も変わらず、そういう自分自身に対する疑問を抱えながら生きて行くしかないのだろう。
Recent Comments