DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: People (page 10 of 16)

男はつらいよ、の効用

 昨日続けて書こうとしたのだが、趣きが違うので別エントリにした。

 世の中を見渡すまでもなく普通に生活していれば、身近に接する人達の中にも、目には見えないが確実に存在している不幸を目の当たりにする事がしばしばである。見たくもないのに、何の相談もなく僕の目の前に開かれたそれらは、これまた確実に何かを蝕む。そんな事にはもう本当にうんざりしているのに、わざわざ、というか好き好んで世の中の不幸をただ並べたようなものを観たくないし読みたくもない。状況が違えば別な感じ方もするのだろうけれど、とにかく今は見たくない。
 このシリーズ、マンネリで面白みに欠けると言えばそうなのだけれど、蝕まれた心を補強する何かを持っていると思う。殆ど様式と呼んでも差し支えない程の、貧乏や不器用さとそれを笑い飛ばすだけの寛容さに溢れた物語は、ちゃんと世界は成立していたのだという幻想を観る者に与えてくれる。物語の最後には誰かが必ず幸せになり、そして誰かはそれを尻目に旅に出る。こんなにも美しいお伽噺。それを観たなら、僕はようやく安心して眠る事が出来る。

プールで騎馬戦、ビート板で殴り合い。

 仕事中、事務所にはいつも J-WAVE が流れており、その中の昼時の番組 Music Plus で、コーナーの一つとしてハワイからの放送がある。ま、そんな事はどうでも良いのだけれど、サーフィンの話題の中で「ビート板」という懐かしい響きを持つ言葉が出てきた。それを聴いてふいに思い出される記憶があった。そう言えば高校の時、夏の体育の授業で水中騎馬戦をやった気がする。しかもその際にビート板で殴り合った気がする。どう考えても正規の授業プログラムだとは思えないが確かにやった。
 試しに同じフロアの後輩に尋ねてみたところ、彼もやった気がするとの事。同じ県の出身なのでもしかして同県では、ちゃんとプログラムに予定されていたのだろうか。教育委員会がそんなの推奨するかなあ・・・。僕の想像では、体力を有り余らせて日頃の鬱憤が溜まっている学生に、体育の教師が気紛れにやらせていただけのような気がするのだが。

 で、少し気になって女性の後輩にも尋ねてみたら、体育祭では女子の騎馬戦が存在したらしい。僕の通っていた学校では存在しなかった。女同士の騎馬戦なんて「ポロリ!芸能人の水泳大会」でしか観た事ない。観たいような観たくないような・・・いや、やっぱり観たくないな。めちゃくちゃ怖そうである。一人はそれは小学生の時だけであったと言うが、もう一人は高校の時にもあったとの事。更に怖そうである。
 僕が通っていた高校の体育祭でも男子の騎馬戦はあった。自由参加のプログラムだったのだが、普段はそういう事に興味を全く持てなかった僕でさえ参加した。通常の騎馬戦では殴る蹴るは当然御法度のはずなんだけど、それはそれ、高校生の体力を持ってしての騎馬戦であるから勿論殴るし蹴る。僕は前方の馬役だったが、相手騎馬とぶつかった時に何故か相手の前方に殴られた。殴り返したくても乗ってる奴の体重が僕の手の平にかかっているので、そこから手を離せない。一体どうやって相手の前方は手を離す事が出来たのだろうか。でも今思えば、奴は最初から殴りたくてそもそも手を離していたのだろう。

 女子の騎馬戦の話に戻る。高校の体育祭での騎馬戦を経験したという後輩。こやつが豪語するのである。「私、馬役だったんですけど、相手の、上に乗ってる奴を叩きのめしましたよ!」そこで高笑いである。その偉業は一体どうやって成し遂げたのかと尋ねてみたところ「もうね、身体ごと突っ込んで行くんですよ!どかーん!て!」いや、それは判るがそれぞれの位置している高さが違うだろう、と思ったが怖いのでそれ以上訊かない事にした。きっとどうにかやって叩きのめしたのだろう。その時の事を思い出して興奮気味の彼女が更に言うには「騎馬戦はねえ、公然と人を殴れる絶好のチャンスなんですよ!」解る。その気持ち。たかだかクラスが違うだけの理由で騎馬で戦う事になった僕等だが、出陣前に気合いを入れる為に円陣を組んだ時の台詞が怖い。「○組の奴らば殺せえ!!」状況が整えば、僕等はそんな事をつい口にしてしまうような生き物なのである。だからと言って女の口から同じ台詞は余り聞きたくはない。何故かって、そもそもが怖い人達なのだから。

水と人の親和性

 羽海野チカの ” 3月のライオン ” を読んでいたらこんな場面が在った。事故で両親と妹を亡くした17歳でプロ棋士の主人公は、自宅の近所(モデルとしては月島)を流れる河を眺めながらこう考える。

 河が好きだ。好きなものなんてそんなにはないけど・・・。水がたくさんあつまった姿を見ていると、ぼうっとして頭がしんとする。

 よく解る表現である。川面をじっと眺めていると次第に周囲の音や匂いやその他の感覚が少しずつ遠のいて頭の中がとても静かになる。僕は生まれてこの方河の近くにしか住んだ事がないので、それだけ親しみも在るし懐かしさもある。しかしそれだけでは説明出来ない何とも言いようのない感覚に陥ってしまうのである。それが物質としての水そのものにその影響力が在るのか、それとも水の流れにあるのか、今を持ってよく解らない。
 ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。

小林秀雄と長谷川泰子

 昨日、村上護著 ” 四谷花園アパート ” を読み終えたのだけれど、以前にも同氏の著書 ” ゆきてかへらぬ ” にも書かれていた小林秀雄長谷川泰子とのやりとりに関しての河上徹太郎の文章が引用されていて、再読しても尚、其処に書かれてる二人の人間の在り方が気に掛かってしまう。以下にそれを二次引用する。

 その頃彼は大学生だつたが、或る女性と同棲してゐた。彼女は、丁度子供が電話ごつこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうつかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持つてゐた。意識といつても、日常実に些細な、例へば今自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるかとか、小林が操る雨戸の音が彼女の頭の中で勝手に数へるどの数に当たるかといふやうなことであつた。その数を、彼女の突然の質問に応じて、彼は咄嗟に応へねばならない。それは傍らで聞いてゐて、殆ど神業であつた。否、神といつて冒涜なら、それは鬼気を帯びた会話であつた。

 そのようなやりとりをしながらの生活が続くとは到底思えない。実際に小林秀雄はついには遁走してしまう。こういった精神状態を長谷川本人は甘え病と呼んでいたそうだ。今で言うなら極端な形で表面化した共依存というところだろうか。

 当時の周囲に居た人々は、一緒に暮らし始めた頃から頭をもたげていた長谷川の潔癖症の悪化を辿った先の症状だと見なして接していたようだ。しかし白洲正子の書くところに拠れば、そういった長谷川の症状は小林と暮らしている間にしか出ていなかったという事である。となれば、傾向として潔癖症を引き起こす要因はそもそも持っていたとしても、甘え病に関する事柄は、小林と長谷川との関係性に於いて生じたものであるのだろう。僕の勝手な解釈で書いてしまえば、潔癖症とは己の裡の脆弱な部分に触れさせまいとする防御の現れであると思う。そしてそういう自分を手厚く保護し薄汚い外界から匿ってくれる相手が居るのなら、その人間に依存する事で危機を遠ざけようとするのではないだろうか。
 そしてそれは保護者と被保護者の関係であるので、保護者が管理を怠れば被保護者は不安に苛まれ、果てには自分を不安にさせる保護者に対して憎しみの感情を抱くようになる。しかもこの場合、健全なる共依存関係である親子とは違い、成人した人間と人間との間の事であるので憎しみは暴力に繋がりやすい。通過する電車に向かって突き飛ばされる事もあったそうだ。

 ★

 昔、未だ実家に暮らしていた頃に ” 汚れっちまった悲しみに ” というテレビドラマを観た。三上博史演ずる中原中也がとても良くて、未だに覚えているしもう一度観てみたいと思っている。中原中也と小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を中心にして書かれたドラマである。友に女を奪われた男、友から女を奪った男、そしてその二人の男の間を行き来した女。小林秀雄を古尾谷雅人、長谷川泰子を樋口可南子が演じている。役名は実名と違うのだけれど。

 このドラマで印象に残っている場面が二つあって、一つは、小雪降る真夜中のおでんの屋台で、おでんが突き刺さった串を小林秀雄に突きつけて「芸術とは何ぞや?詩ぃとは何ぞや?!」と凄む中原中也の姿。そしてもう一つは、長谷川泰子が自分の元から離れて行く事に感づいた中原中也が女に向かって「おなごを買いに行って参ります。」と言い残して立ち去るところ。
 今思えばこれらの場面は、中原中也という人間の性質を良く表現してあると思う。しかしこういったドラマ化の場合、観る人々の最大公約数的な関心事に的が絞られてその他の不随する事柄が省略されてしまうので、この場合も御多分に漏れていない。単なる恋愛ドラマの域を出ていないのである。近年になって僕が知った三者それぞれの事情、そしてその界隈の人々の間で共有されていた価値観。これを知った上でこの三人の関係を見ないと人間の重要な部分を見落としてしまう。何が足りていないって、彼らの過ごした時間の中に立ちこめる凄絶さが足りない。

揺らぎの表情

 土曜日曜と、酷い花粉症と冷たい雨降りの為に桜を観る事を諦め、部屋に籠もって録り溜めていた「鹿男あをによし」を観ていた。最近の邦画やテレビドラマで使用される住居のセットは実に良い。このドラマでも、主人公が下宿するのは古い旅館を改造した飲み屋の二階の四畳半間という事になっているが、それがよく考えられた舞台装置で、しかも僕好みの大正・昭和初期頃の質感で造られている。あんな部屋に住んでみたいなあ。

 で、今回はそういう話ではなく綾瀬はるかの表情についてである。そういう女優がいる事は知ってはいたものの映画やテレビドラマで観た事はこれまでに無く、今回初めて観たのであるが、この人の表情を観ていると何となく心がざわつくのである。目の焦点が定まっていないとかそういう対人恐怖症的なものではなく、何だろう、目や鼻や口の配置なのかそれとも微妙に力の抜けた表情の張り具合なのかよく判らないけれども、観ている僕の方まで不安定な気持ちになってくる。そして喉の下辺りがざわざわしてくるのである。
 この女優の他の出演作を全く観ていないのでそれが演出なのか、この人の特有のものなのかは知らないのだけれど、なかなかお目にかかれない表情なので、気になって仕方がないのである。

 話は変わるが、このドラマにも学年主任役で出演している篠井英介という役者が結構好きである。公家か歌舞伎役者崩れみたいだなあ、と思っていたら実際に歌舞伎役者を志していたようだ。他の役者達とは発声の仕方が違うような気がしていたのだが、そういう理由であったか。

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