DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: People (page 14 of 16)

岩松 了

 「帰ってきた時効警察〜第八話」は、三日月120%という感じで大変気に入っているのだけれど、早いもので残すは今週末の最終回を残すのみ。一抹の寂しさを感じる。
 そんな時に、兼ねてより予定されていた岩松了が監督を務める、仮題「たみおのしあわせ」が「そして夏がきた」というタイトルに変更され、6月1日からクランクインしたという知らせを見つけた。主演はオダギリジョーと麻生久美子。二人の結婚へと至る騒動を描いたものであるらしい。最終回がどうなるのかは判らないのだけれど、時効警察での二人を見ていて、結婚というイベントに巻き込んでみたくなったのだろうか。

 Wikipedia の頁にも在るように、岩松了は俳優より以前に劇作家・演出家であるのだが、いかんせん僕は戯曲は読まないし演劇には疎い。彼がどのような舞台を作り上げている人なのか全然知らない。知っているのは、色々な映画やテレビドラマに端役として出ているのを見かけるのと、幾つかの作品に脚本家として参加している事くらいだ。
 岩松了脚本で観た事があるのは、荒木経惟とその妻陽子を描いた「東京日和」と、「私立探偵濱マイク〜第七話」と、「時効警察〜第三話」くらいだが、どの話も夫婦の話だ。しかもどの夫婦も漠然とした疑念を抱えながら暮らしている。そんな話ばかりを書いていた岩松了が結婚へと至る話を撮ると聞いて僕は「へえ。」と思った。その「へえ。」とは下世話な興味でしかないのだが、何だか楽しみである。何より「そして夏がきた」というタイトルが気に入った。静岡県島田市の風景と共に、僕は勝手にラストシーンを思い浮かべてしまう。そこにはとても幸せな光景が広がっているのだ。撮り終えるのが今年一杯だという事だから、公開されるのは来年になるのだろうが、そういう物語を観たいと思っている自分を、実のところ持て余している。僕が未だに未婚だからかも知れないのだけれど。

 6月も既に5日は過ぎ、その内に雨が多くなってくるのだろう。昔ほどは梅雨が嫌いではなくなってきた。雨が降っている方が気持ちが落ち着く。しかしながらそうした季節もやがては過ぎ去り、気がつけば、強烈な光に溢れた夏が手を広げて待っている。

視るという信念

 一昨日の事だ。東京地方は夏日とも思える陽気で、街行く女性達の中には二の腕を露わにした人も幾らか見受けられた。そんな日の夜の事。仕事帰りの僕はいつものように晩酌の為の酒を手に入れようと帰り道沿いに在るカクヤスに立ち寄った。そして自動扉を意気揚々とかいくぐった僕の目に飛び込んできたのは、カットオフジーンズの下に長く伸びた白く艶やかな女性の脚であった。僕は突然の事に声も表情も失いその場所に立ちすくんでしまったのだが、哀れむような、それでいて威圧的な店員の視線に気付き目を覚ました。
 そしてその後、その女性はあろう事か陳列棚の低い位置に置いてある酒のラベルを見ようとしてか、お辞儀をするように上体を前へ屈したのである。そうするってーとどうなるかというと、わざわざ書く事でもないが、脚のずっと上の方、つまり尻の際までもが僕の面前に押し出される形になるのである。とすれば普通に考えて「こりゃあ堪らねえ。こいつを見逃す手はねえ。」って場面なのだが、ここで僕の悪い癖が出る。ここまで挑戦的に見せられるとついムカっときてしまい「絶対に視てやらねえ。」みたいな事を思ってしまって、そそくさと他の陳列棚へ逃げてしまうのである。

 勿論そうしてしまった場合、視なかった事に対して後悔するのである。その時はその後悔は直ぐさま襲ってきて、別な酒を探すフリをして当の女性の背後に戻ろうと思いはした。したのだけれど、店員(男二人女一人)の視線がその女性に集まっていたのでどうにも戻り難い。男の店員の視線は同じ穴のむじななのでこの際どうでも良い。しかし一人の女の店員の視線が僕を躊躇させるのである。三日に一度はこの店に立ち寄っているので、今後どんな目で見られるか判ったものではない。悪くすれば、もう二度と僕に酒を売ってくれなくなってしまうかも知れない。くわばらくわばら。
 結果、その女性の脚を二度視する事は出来なかった。惜しい事をしたものである。あそこまでの美しい脚は滅多にお目にかかれないだろう。どうせなら、対象となる女性に至近距離まで近付き、それはもう舐めるように凝視出来るくらいの男になりたいものである。

腐点

 本日の東京は最高気温28.8℃を越え、真夏日とまではいかなくとも既に夏である。今この瞬間にも、エアコンの温度表示を観てみれば25℃である。Fishmans の「 Wether Report 」という曲中で「5月なのに25℃を越える日もあるさ」などと歌っているが、今日はそれ以上だ。

 こんな日の終わりに部屋に戻ってみれば、いつもとは少々違う事に気付く。朝見た時にはあんなにも元気そうにしていた向日葵の切り花は、花瓶の水を半分以上も減らしてうな垂れているし、台所からは妙な匂いが漂ってくる。腐敗の兆候である。
 この自然界には沸点や融点もあるのだから、腐点というのも在りそうな気がするのだが、どうなのだろう。一昨年だったであろうか、日中の最高気温が39℃を越えた日、町中を歩いているとこれまでに嗅いだ事のない腐敗臭が漂っていた。いや、何かが腐敗した匂いなのかどうかも判らない。兎に角得体の知れない匂いを僕の鼻腔を擽ったのである。その時に僕は思った。この世に存在する有機物には、それぞれ腐敗し始める腐点のようなものが在るのではないかと。

 話は変わって、これは比喩でしかないのだが、人間にも腐点は在りそうだ。人それぞれが持つ己の欲求。似たような欲求でも人に拠って臨界点が違う。ここで言う臨界点とは、その値を超えると周囲の人間の存在が無に帰す事、社会性を無くす事である。時折、その臨界点が極端に低い人と出会う。傍目には面白いと思えなくもないが、実際に関わっていると迷惑なだけである。ただ、その人が全ての領域に於いてそうであるのではなく、部分的に(僕の主観では)腐っているだけなので、それ以後も相変わらず付き合っていく羽目になる。でもまあ、その領域が広ければ広い程疎ましく感じるのは事実なので、場合に拠っては離れざるをえないと判断する事も出てくるのである。
 とまあ、偉そうに書いてみたが、そういう事に基準を作るのは難しいねえ。

幸福という創造物

 つい先ほど、イトーヨーカドーで慎ましい夕食を買い求めて部屋へ戻るべく踏切を渡ろうとしていた時、擦れ違った男子中学生が携帯電話で誰か向かってこう話しているのが聞こえた。「ご飯ある?」相手は母親であろうか、学習塾の帰りなのかよく判らないけれども、これから帰る家に何かしら期待が持てるというのは幸せな事だなあ、と思う。
 そう言えば、ずっと以前に青山のワタリウム美術館で売られているポストカードを眺めている時に見つけた一葉の写真を思い出す。何処か外国のビーチで撮った写真で、高い位置から幼い男の子が父親の胸へ向かってダイヴする瞬間を写していた。男の子は父親が自分を受け止めてくれる事を一瞬たりとも疑う事なく満面の笑顔で飛び降りている。父親は少しだけ困ったような表情を浮かべながらも、逞しい上半身を輝かせながらしっかりと腰を据えて息子を受け止めようとしている。僕はカードを棚に戻す事も忘れてずっと眺めていた。

 このような写真を撮りたいなあ、などと時折思う。しかし実際にはこれとは凡そ反対の要素を持つ写真ばかりを撮ってしまう。それはそれで仕方ないと思ってはいるのだけれども、いつの日にかそんな写真を撮る事が出来たならば、己の死が間近に迫る日々を、その写真を眺めながら過ごしたいと思う。自分はそんな幸福な世界を生きて来たのだと、自分を欺いてでも、そう思いながら死にたい。

境涯

 久しぶりに古い友人と電話で長話をしていると意外な話が出てきた。一月ほど前に宗教家である友人の元に、かつての共通の友人が相談に訪ねて来たとの事であった。僕は別な高校に通う事になったので、中学を卒業した後のその友人の事を僕は全く知らなかった。伝え聞くところに拠れば、高校ではさほど問題のない生活を送っていたのだが、社会に出る少し前から精神のバランスを崩し始め、そしてそのまま働いては辞め働いては辞め、を繰り返して来たとの事だった。
 それで彼はどうにもならなくなり、手当たり次第に周囲に助けを求めるも何の救いも得られず、回り廻って友人の所へ頼ってきたのだった。宗教家の友人は話を聞きながら、訪ねて来た友人の変わりように衝撃を受けたようだ。僕が覚えているのは、いつもニコニコと白い歯を見せて笑っていた彼である。あれからもう20年以上経つ。そんなにも長い間、バランスを欠いた己の精神を抱えて生きてきたのだ。少し想像しただけでも目眩がする。

 そう言えば中学の頃、その宗教家の友人の兄がこう言ったそうだ。「おまえらの学年は他の学年に比べて何処か違う。」何を持ってそう言ったのかは不明だが、そうかも知れないとは思った。とにかく面白い奴が多かったのだ。それだけに楽しい学校生活を送る事が出来たので、僕は密かに自慢に思っていた。しかし後年になって、ちらほらと耳に入ってくる同級生達は何だか大変な事になっている奴が多い。社会が大きく変動した訳でもないので、たかだか一二年の差に何かが在るとは思えない。なので僕の年代だけがそうである訳ではなく、どの世代でも同じように皆大変な事になったりするのだろう。

 かつて、僕だけがおかしいのではないかと未だ悩んでいた頃。或る時期、或るきっかけで、誰もがそれぞれ少しずつおかしいという事に気付いた。そしてそのせいで誰もが日々酷い目に遭っている。その事実に対して僕は生まれて初めて絶望した。己が生まれ出たこの世界に言いようのない嫌悪感と無力感を味わったのだ。しかしそのままでは死ぬしかないので、僕は無理矢理にでもそれを認めるしかなかった。飲んで喰らって消化するしかなかったのだ。
 それから長い年月を経て、今では随分と慣れた。世界の成り立ちとしてその事実を認める事が出来る。しかし、それでも、かつての時間や空間を共有した懐かしい人達には、幸せでいて欲しいのである。

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