DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: People (page 12 of 16)

土へと還る欲望

 人が死に、腐乱した肉体がバクテリアその他に拠って分解されて土に還るとはよく聞く言い回しだが、実際に人間にはそういう欲求が在るように思えてならない。弱り切った人間が草木に慰められるのは何故か。年老いた人間が田舎に引っ込んだり、農業を営む事を夢見るのは何故か。
 そう言えば子供の頃にやたらと土を掘り返したり、その穴に腕を突っ込んだり頭を突っ込んだり、果ては大きな穴を掘り、そこに身を横たえてみるとどことなく安心したのを覚えている。

 理由など何一つ思いつかないが、何となくそうしてしまうというのは立派な欲望であると思う。似たような事で言えば、水に身を浮かべるとか、その流れに身を任せるとか。それか樹木や岩にへばり付いてみるとか。短絡的に書いてしまうと、自分より大きなものに自らを任せたくなるのだろうか。

女の一生

 先日のエントリで母の事を書いていて思い出したのが、リリー・フランキーの「東京タワー」の中の一節。産み育てた子供達が皆家を出、其処に独り残された二人の祖母の話だ。一部を少し引用すると。

 筑豊のばあちゃんは相変わらずひとりで、黄色くなったジャーの中の御飯を食べていた。(中略)誰も居なくなった家で、黄色くなった御飯を食べながら、心臓病の薬を飲み、映りの悪くなったテレビを観ている。ばあちゃんにとって、一日のどんな時が楽しいのだろう。人生の何が楽しみなのだろう。

 その後に続く本文にも同じような事が書いてあるのだが、そんな祖母の後ろ姿を想像しては、僕は自分勝手にやりきれない気分に陥ってしまう。父方の祖母は既に亡くなっているが、母方の祖母は、一昨年に伴侶を亡くし今は独りで暮らしている。母の末弟が近くに住んでいるのでちょくちょく様子を見に行ってはいるし、その叔父や母が一緒に暮らす事を薦めても頑としてその家に留まる考えを変えないと聞く。
 長い年月を生き続けた一人の人間が自ら選んでそうしている事だし、僕のようなまだまだものの解っていない人間がどうこう言える事ではないとは思うけれども、切なく、非常に無力感を伴う。祖父が亡くなった時、僕は仕事をどうしても抜ける状況ではなかったので、別れを告げる事が出来なかった。そして前年の末は、帰省はしたのだが、著しく体調を崩した為に祖母の元を訪れる事が出来なかった。つまり独りになってしまった祖母には一度も会っていない。

 そんな経験をすると、明確な答えなど見つかるはずもないと思ってはいても、つい「一体どういう状態での家族の在り方が一番正しいのか。」などという事を考えてしまう。事情は千差万別。それが家族であれ何であれ、人と人との関係は「思うようにはいかん。」のが常であり、もし健康的な繋がりを保てそうな気配がするのであれば、それはきっと守るべきものである。僕は今そんな風に考える。

 タイトルに大層な事を銘打ってしまったが、実際問題、僕に女の人生について語れる訳はない。ただ、親しい人間の寂しそうな姿を見るのは辛い。それは勝手な思いこみだし、根拠としてはそれだけしか無いのだけれど、とても大事な事のような気もしている。

眼球舐め

 これは十庵氏の要請に応えるエントリである。

 だからと言ってこの話題というのも何だけれど。今から7年ほど前に、僕は突然、しかも実施でいきなりこの行為を知る事になる。しかし全然嫌ではなく、不思議な事に何の違和感も感じなかった。真夜中にいつものようにセックスに及んだ際に「ちょっと目開けてて。」と言われ、何だろうと思いながら目を思いっきり見開いて待っていたら、彼女は僕に覆い被さり、何の説明も予告もなく舐めてきたのである。
 確かに気持ち良かった。その気持ちよさを例えるなら、蒸しタオルで目を覆う気持ちよさと、粘膜を介して行う性的な気持ちよさが混じったようなものだった。僕はどちらかと言えば物の先端に恐れを抱く方で、目薬さえまともに指せないのだが、この時はあまりそういう事を感じなかった。彼女の舌先が僕の眼球をなぞるのは、身体の他の部分で感じるのと同じように、行為を受ける者の喜びを感じる事が出来た。

 その時の事を彼女がどう思っていたのか解らないが、眼球を舐められたのはその時一度だけだった。僕からもその時しかした事はなかったと思う。ノリだとか流れだとかの曖昧な理由で、その行為に及ぶ機会がなかっただけかも知れないが。

 ★

 相手の眼球を舐めるという行為について、僕は人の口からは殆ど聞いた事がない。一人だけ、或る女性と話している時にその話題が出た事があるが、他はない。それは僕が性的な事柄について他人と話す事が余りないからかも知れない。実際のところ、よく解らない。少なくとも一般的ではないような気はしているのだけれど。

吉原と島原 / 小野 武雄

 先日再読してみた。この手の本は一度読んだだけでは極一部を覚えているだけでその他は全然頭に入っておらず、暫くしてか、若しくは数年後に再読すればその度に色々と気付く事があるものである。そりゃそうである。著者が膨大な時間とエネルギーを注いだ本を初見で覚えられるはずもない。第一僕は記憶力が薄い。すぐに色んな事を忘れてしまう質なのだ。そして今回、面白く読んだ部分は多々在ったのだけれど、その中で最近の僕の思考の流れに沿う部分を一部抜粋して話をしようと想う。

 客と遊女が本当に惚れ合い、離れ難い気持ちになると、とりわけ富豪の息子が夢中になって熱をあげると、遊女は彼を手放したくないと切望して、誓いの言葉を述べるだけでなく、最も権威あるものといわれる熊野神社の午王宝印の起請文にならって、夫婦になる起請文を書いて、神仏に誓う。

 落語「三枚起請」(僕自身はその話は知っているのだけれども、まともに落語としては未だ聴いていない)でも知られる誓いだてですな。武将の盟約にもよく使用されたらしく、誓いとしては厳格なものであったようである。(余談:実は三枚起請の下げの意味がよく解っていなかったのだが、此処にその解説がされていた。僕はまだまだ勉強が足りない。)とまあ、そういう事らしいのだが、しかしながらこれが今回の主たる話ではない。流れを作る前文として書いたまでだ。引用元の本には上記に続いてこう在る。

 さらにそれだけで不足ならば、遊女は真実の意を示す証拠として、小指を切断して男へ送る。

 漫画「さくらん」にも出てきた話だ。切断した小指を送りつけられるなんて、日常的な精神状態であれば脅迫という観念さえ越えて恐怖以外には思えない行為であるが、ロミオとジュリエットの類とは全然違った嗜好性に酔って、盛り上がりに盛り上がった当事者にとっては当然な流れなのかも知れない。更にこう在る。

 また、客とともに互いに腕に、○○(遊女の名)の命、××(客の名)の命と入墨をして、見せ合う。

 これを読んで「お。根性彫りてえのはその頃から継承する習慣だったのか!」と思ったりしたのだけれど、よくよく眺めていると少し感じが違う。「名前」と「命」の文字の間に「の」が入るらしいのだ。僕の認識で言うならば「千明命」だとか「静香命」という風に刻まれるはずである。その意味合いとしては「おいらは千明を命を懸けて愛するんだぜ!」または「おいらは静香を命を懸けて愛しているんだぜ!」とか、どちらかと言えば一方的な想いを告白している感じである。
 しかし江戸吉原で流行った入れ墨は「の」一文字が入っているだけで、その意味合いは「おいらは夕霧の命と謳われるほどの男なんだぜ!」となってしまう。相思相愛。お互いが最上の情夫(婦)である事を前提とした宣言文である。何だかえらい事になっているのである。これに比べたら「の」が入らない入れ墨なんぞ稚拙な自演に過ぎない。しかし傍から笑って見ていられるのもこちらである。相思相愛の上での入れ墨なんて笑えない。そういうのは他人に見せてはいけないものだ。上記の引用文から察するに、お互いが確認する為だけに行われた風習であるようだ。深く絡み合った情愛は二人以外の世界を排除してしまうのだろう。

蛮行伝 その二

 暫く前の話。恋人同士なのか夫婦なのか判らないが、見慣れない顔。上気したような表情で男が女の肩を抱く。肩を抱くとは言っても、例えば年老いた白人の夫婦が愛情と労りを持ってするような雰囲気ではない。飽くまで性的快楽を求めるような手や指の動きである。昨夜のセックスがそんなにも良かったのか。それとも玄関を出る寸前までヤっていたのだろうか。射精後の男がそういつまでもそんな状態でいられるとは思えないので、恐らく時間切れで中途で止めてきたのだろう。

 女が許せば、きっとその場でヤり始めるのではないかと考えながら眺めていたら、女は肩に乗せられた男の手を払いのけた。惚けているのは男の方だけらしい。興奮で脳味噌が溶けているのだろう、男はその後もしつこく肩を抱こうとしたり腰に手を回したりしていた。
 早朝の満員電車の中では、殆どの人々は内心イラつきながらも吊革に捕まっている。そんな中で欲望に顔を歪ませている人間が人目を憚らずに行為に及んでいれば、そりゃあもう不適切を遙かに超えて不快である。このまま男が諦めずに行為を続けた場合、女がキレるのが先か、それとも他の乗客がキレるのが先か一体どっちだろうな、などと考えている内に電車は僕が降りるべき駅に到着した。

 因みに僕は、人目の在る場所で性的な行為をするのが嫌いである。手を握ったり腕を組んだりするのが限界だ。僕の方からはそれ以上は絶対にしないし、もし相手がそういう事をし始めたら怒りすら覚える。それとは逆に、二人きりの空間でなら何をしようが大抵の事は平気なのだが。

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