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A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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縦縞の粋

 前回に続いて美意識の研究を読み解き、自分に判りやすいように再編する試み。今回は縦縞という模様が何故「粋」であるかについて。「粋」という観点からすれば「横縞」よりも「縦縞」の方が「粋」であるらしい。それは何故かというと

横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるから

 という事であるらしいのだが、それでは平行線として知覚しやすい事が何故「粋」なのかというと

 物の本によれば、着物の縦縞の平行線は男と女の暗示になります。男と女は、平行線である方が「いき」である。〜中略〜二つの線は限りなく近づくが決して接しない、その状態を「いき」とよびます。「決して接しない=平行線」を強調する縦縞が「いき」なのは、その所為です。

 という事であるらしい。付かず離れずの男女関係の緊張感に「美」を認めるという部分には、些かの異も唱える気はないのだが、僕が不思議に思うのは、何故この(限定された関係性における)美意識が、地域の文化としてまでに広まって行ったのかという事である。極度に発達した遊里の存在がそれであろうか。江戸の遊里の発達には参勤交代の制度が大いに拍車をかけているという事だが、そうすると、武士の間で持て囃される美意識が町人の間にまで下ったという事であろうか。

 僕の思考は、今現在この辺りで止まってしまう。情報が足りなさ過ぎて、まったく持って体系化出来ていない。そもそも、何かを体系化するという事に慣れていない私には、とんでも無い事柄に首を突っ込んでしまったような気もする。

 前回も同じ様な事書いたが、単純にパッと見で、縦縞は美しいと思う。僕は今現在着物を持ってはいないが、もし自分で着物を誂えるなら、やはり縦縞が良いと思う。しかも、物凄く細く接近した平行線の。それを単純に「美」だと思っていたのだが、それに意味が加えられると「美意識」というものになるのだろうか。「美」とは極個人的なものである。それが広がる為には「意識」が必要なのであろうか。では何故「美」を広める必要が在ったのか。それはもしかすると「生き抜く為の知恵」であるのかも知れない。

黒の粋

 遊里や遊女について情報を漁っていたところ、面白いページを見つけた。 i Gallery というサイトの中の美意識の研究という一頁。簡単に言えば「江戸文化の美意識」についての記述だが、ひとつひとつの文章が(私にとっては)色々なヒントを与えてくれ、大変勉強になる。このエントリでは、その中の一部分だけ取り上げようと思う。リンクを張っているのだから、紹介だけしておけば事足りるのだが、私の復習用メモという事で。

「いき」というのは美意識ですが、その美意識によれば、黒は「いき」ということになります。正確には、黒みを帯びた色が「いき」とされています。

 先日、関東文化圏の人々は黒を好んで着るし、関西文化圏の人々は派手な原色に近い色を好んで着る。という話を聞いたのだが、それはまさしく上記に引用した美意識が生み出したものであるのだろう。「粋」を美意識とする関東文化圏の人々が、何故「黒」という色を良しとするかについてはこう書かれている。

 黒味を帯びた色が「いき」なのは、非現実的理想主義とでもいえる色だからです。鮮やかな色が重なりあって沈静化し、冷ややかな落ち着き(無関心)が出てくるからです。華やかな過去を持つ色(色気)が、諦めによって一層の光沢を放ちます。渋味が、加わるのです。

 非常に観念的である。私個人としては、何かしらの観念や意味を発端としてモノを好むという事がないので、今一つ理解し兼ねる部分もあるのだが、文化として拡がり、継承するにはそういうものが必要なのかも知れない。「無関心」や「諦め」の意味については、他の箇所に説明がある。しかしそれは、今回は割愛する。

 僕はこれまで、映画やテレビの時代劇の中で、町人達が黒ずんだ服ばかりを着ているのは、御上から「町人は派手な色の服を着てはならぬ」というお達しでも出ているのかとずっと思っていたのだが、そういう訳ではなかったようである。

 数年前、電車の中で見かけた50代くらいの女性。しっかりと結い上げた白髪交じりの髪の毛に、黒い羽織、中には細かい市松模様の和服姿であった。見慣れない化粧をしているのもあってか、非常に艶やかで粋な印象を受けた。「黒の粋」と言われて僕が思い浮かべるのは、その女性の立ち姿である。それか、祭りで見かける法被。

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