DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: People (page 15 of 16)

表裏の逆転、若しくは個体内でのパラレルな共存。

 昔、未だネット上は極めて非日常的な空間で、匿名性を利用して日記を公開している人達がたくさん居て、僕はその人達に引っ張られるようにしてインターネットの世界に入り込んだ。普段目にする事のない言葉がひっそりと書き連ねられ、抑えられていた感情が圧縮機にかけられたようにひりだしてくる様を眺めていたのだった。
 それから数年が経ち、インターネットの普及と共に言葉は平準化され、其処は非日常的な場所ではなく日常の延長となった。奇妙な唸り声を上げるモデムを介して、こちらから何かを探しに行く場所ではなく、ブロードバンドに拠りあたかも窓を開けるようにして眺め得る風景となった。良い悪いではない。ただそうであるだけの話。
 不便極まりないダイヤルアップの時代にも、少人数ながらコミュニティは在った。匿名性はいつしか人格を持ち、それらが互いに交差していくうちに或る関係性を持つようにもなった。当初の匿名性は希薄になり、書けない事も次第に増えてくる。そして誰かが別な名前で、無料のサーバスペースを使って裏日記を書き始める。勿論最初は誰も気付かないが、そもそも顕示欲が強くなければ日記を公開したりするはずもないので、自分の日記ページの中に隠しリンクを張ったり、特定の人にだけ教えたりする。それがいつの間にか周知の事となって、関係性は複雑化する。非常に人間臭い村がそこに出来上がってしまうのである。

 此処までは昔そういう事もあったな、という思い出話でしかないのだが、最近思うのだ。インターネット上でのやりとりがコミュニティ主体になってきている昨今、物理的・社会的な距離を飛躍的に縮め、様々な人と知り合えるのは結構なのだが、それだけに自己が晒し晒される頻度や深度が増大する。それに疲れたり嫌になったのであれば、そのコミュニティから離れれば済む話のような気もするが、中にはそれをドロップアウトのように感じる人も居るかも知れない。学校や会社からのそれと同じ感覚で。
 それとは別に、そのドロップアウト的な行動を好む人も居るだろう。極端な話、オフラインで生活していると、日常化されたインターネット村の裏側に居るような気がしてくる事がある。・・・何だか取りとめの無い話になってきた。また後で書き換えるかも知れない。

痩身の老猿

 今朝、弟から携帯へ電話があり、母方の祖父が亡くなった事を知る。今現在、仕事に忙殺されいて、とても故郷へ帰る余裕がない。じいちゃん、ごめん。
 思えば、もう数年来祖父の姿を見てない。最後に会った時には、まだまだ元気であった。彼の事を思い出す時は、いつも子供の頃の記憶が蘇る。大の酒好きである祖父は、一風呂浴びた後には必ず晩酌をする。電気式のポットのような器具で、いつも燗をつけていた。勿論、隣に座ってる僕にもお猪口が回ってきて、一口は付き合わされた。祖父は、酒を呑んでいる時はいつも赤い顔をしていて、楽しそうだった。
 今、彼の事を必死に思い出そうとしているのだが、何かを話したという記憶がない。祖母や母、その兄弟達と話してるのを隣で聞いていたという事しか覚えていない。内容は全然覚えていなくて、祖父のしゃがれた声しか思い出せない。たぶん、孫の遊び相手になるような人ではなかったのだろう。寡黙という感じではなかったし。本当に、酒を呑んでいる姿しか思い浮かばない。

 年々、遠くに在る人を想うという事が出来なくなっている。長く生きていると、誰でもそうなっていくものなのだろうか。寂しいような気もするし、それはそれで良いような気もする。でも今夜は、色々な人達の事を思い出しながら眠る事にしようと思う。

心のバランスを崩してしまった時

 取り敢えず自分の為に出来る幾つかの事柄。

  • 太陽の光を浴びる。
  • 水に触れる。
  • 身体を暖める。
  • 身体を動かす。
  • 食べる。
  • 眠る。

 どれも生きて行く上で基本的な事ばかりである。しかし、自分で自分をどうする事も出来なくなった時、振り返ると、これらの事柄の幾つかがお座なりにされている事に気付く。生活を続けて行く中で、少しずつ失ったものを意識して取り戻さねばならない。
 太陽の光を浴びる事と水に触れる事と身体を動かす事は、凝り固まった身体を解し、自分の内部に注視されていた意識を僅かでも外に向ける事が出来る。
 水に触れるのは、海や川で身体を水に浸らせても良いし、それが出来る環境でないのなら、湯船に浸かったりシャワーを浴びるのでも良い。言ってしまえば、雨に打たれるのでも良い。
 太陽の光を浴びる事と身体を動かす事は、身体を温める事にも繋がる。血流が鈍れば身体冷えていき、意識は沈滞するように思われる。食べる事や眠る事も、同じような事が言えるかも知れない。

 これらの事をする前にやる事があった。但しこれは、事がとても深刻である場合。

  • 自分の外部に、掛け替えのないものを持たない。

 人でも物事でも。既に手にしているのなら、手放す。これを手にしていると自分自身を守れない。しかしこれは取り敢えず危機を脱する為の応急処置でしかないので、恒常的な話ではない。勿論、これが全ての人に当てはまる話だとは思っていないし、もしかしたら私だけに当てはまる事なのかも知れない。

ツキヨミの思想

 というタイトルで、白州正子が「夕顔」の中に文章を書いていた。

 日本の神さまは三人一組になって生まれる事が多く、真中の神さまは、ただ存在するだけで何もしない。たとえばアマテラスとツキヨミとスサノオは「三貴子」と呼ばれるが、アマテラスは太陽(天界)、スサノオは自然の猛威(地下の世界)を象徴するのに対して、夜を司るツキヨミだけは何もせず、そこにいるだけで両者のバランスを保っている。次のホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホイリ(山幸彦)の三神も同様で、真中のホスセリだけは宙に浮いていて、どちらにも片寄らない。いわば空気のような存在なのである。

 そんな神話を紹介していたが、それが何処から来る話かというと、深層心理学者の河合隼雄が「中空構造」という臨床士の立場を著す表現として用いた言葉があるが、その分かりやすい例として上げているのである。

 若いときは、自分で相手の病を直そうと思って一生懸命になった。だが、この頃は、自分の力など知れたもので、わたしは何もしないでも、自然の空気とか風とか水とか、その他もろもろの要素が直してくれることが解った。ただし、自分がそこにいなくてはダメなんだ。だまって、待つということが大事なんですよ。

 当時の河合氏の見解に拠れば、日本の若い医師や海外の医師は、自分でやっきになってクライアントを治そうと試みる人が多いそうで、自分の考えが全てであろうはずもなく、一つの考えに過ぎないと言っている。

 昔、或る女性との別れの際に「そこに居てくれるだけで良かったのに。」と言われた気がする。(別れの際だったかどうかが、どうにも曖昧だが)そんな時に今更な事を言われても、僕としてはどうしようもない。それに、どうやら僕と関係した事を後悔しているらしき言動に腹を立てもしたのだが、今考えてみると、そういう事であったのかも知れないと思う。何も彼女が病に伏していたのだとは思わないが、彼女にとって、僕が何かの支えになっていたのかも知れない。しかし、結果として僕は立ち去ってしまった。その事を後悔はしていないが、悪い事したな、とは少し思う。
 但し、家族でもないし、第三者的な治癒者でもない僕が、そのままずっと彼女の傍に居続けられたとはとても思えない。そんな事を求められても、浮き世に塗れ、人並みの情を欲する僕は困るのである。もしかしたら、遠くから眺める事くらいは出来るのかも知れないが。

左様なら、そうであるなら、さようなら。

 此処を読んでいて思い出した。

「さようなら」「じゃまた」でなく「今度」でもない。「さようなら」は諦めの言葉なのです。相手の事情を理解して、一歩退いた上での別れの挨拶なんですね。

 昔、7年くらい前。誰かの日記サイトで同じ様な文章を読んだ記憶がある。「そういう事情であるのでしたら、私は立ち去りましょう。」そういう意味だと書いてあった気がする。当時の僕には目から鱗であった。それまでの僕が、人と会い、離れる時にどう挨拶していたのか、今一つハッキリ思い出せないが、その文章を読んで以来「さようなら」という言葉を使う事に神経質になった。二度と会いたくないとか、二度と会えないだろうとか、そんな事を思ってもいないのにその言葉は使えない。ましてや、もう一度会いたいと願う人に対しては思い浮かびもしない。

 時折、「じゃあ、また。」というニュアンスで「さようなら。」と挨拶する人と出会う。それはただの習慣の違いだと思っているので、その事について何か批難めいた事を言ったり、どういう意味なのかと尋ねたりする事はない。思い返してみれば、小学校の時は「帰りの会」が終わった後に「先生、さようなら。みなさん、さようなら。」と言うように教えられたではないか。しかしやはり、好きな人に「さようなら。」と言われると、「永遠にさようなら。」と言われているような気分になって、言いようのない不安を自分の中に見つけたりするのである。

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