DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Category: People (page 3 of 16)

雨の日の光景

 ふと思ったのだけれど、雨にずぶ濡れになりながら歩く姿が似合うのは、中学生もしくは高校生の男の子だけではないだろうか。

 小さな子供や年寄りは可哀想に思ってしまうからそもそも除外するとして。眺めている側からすると、青年や壮年の男性の場合は見かけるのは大概仕事中だったりするので、頑張ってるなぁとか、大変だなぁとか、何か嫌な事でもあったのかなぁとか、色々と複雑な思いで眺める事になるので美的観点は成立しない。それと同じ年頃の女性である場合は、本人達が雨に濡れる事を非常に嫌がり執拗に避けるし、濡れたら濡れたで地獄にでも落ちたような表情で歩いているので正視するのが難しい。仕事中の女性の場合は、男性に対するのと同じような感じか。で、中学生や高校生の女の子の場合は、一人だとやけに心配になるし、複数だと騒ぐのでうるさい。
 中学生や高校生の男の子は、自分がそうであった時の事を思い起こせば、傘を差すのは嫌いだし、そうするくらいなら寧ろ雨に濡れた方が心地良いと感じていたような気がする。そういう記憶も手伝ってか、彼らが雨に濡れていても一向に心配にならないし、可哀想にも思わない。とても落ち着いた気持ちで眺めていられるので、その姿を美しいと思うのかも知れない。どんな時でもそう思う訳ではないが、例えば季節は夏で、夏の制服を着ていて、緑の多い田舎道だという風に条件を揃えていけば更に良い。これは緑に白いシャツという色の組み合わせが美しいという事が大きいと思う。
 しかしこういう見方は多分に偏見を伴っている気はするし、眺めている人間がもし女性であるなら違った見方をするだろうとも思う。もしかしなくても、中学生や高校生の女の子に対して同じように思うのかも知れない。そうだとすると、あの雰囲気はあの年ごろに特有の質感なのか。それとも見る側の記憶が創り上げた幻影なのか。先日降った雨の日に、白いイヤフォンを耳に突っ込んだまま、半ば俯いた様子で自宅の前の道をとぼとぼと歩いていた少年を見た時にそんな事を考えた。

夕顔棚納涼図屏風 / 久隅守景

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 この季節、実家の自室で窓を開け放ち過ごしていると、門前の往来を人々の行き来する姿が見え、また窓外を見ていなくとも人が通れば物音がするし、人が通らなくとも風が木々を揺らす音や、雨垂れの音、猫や犬や鳥や虫の鳴き声が聞こえてくる。家中に居ながらも外界との距離が非常に近く感ぜられるのだ。そんな光景を眺め、音に耳を傾けながらぼんやり過ごしていると、僕は東京国立博物館に所蔵されている納涼図(左上参照)を思い出す。
 竹で簡単に組まれた屋台骨と、屋根を覆う夕顔の葉々と、地面に敷いた筵。右側に家屋が続いているようなのでテラスと言ったところだろうか。陽差しと雨を避ける以外は吹きさらしの状態で、家族三人がそれぞれに寛いだ様子で一方向を眺めている。その視線の先に何があるのか想像するしかないが、人が転んだとか、牛が水路に落ちたとか、犬がクシャミをしたとかそんな事ではなかろうか。それが何であれ、身近に起こる事象をそのまま体感する事を嗜好しているようなその姿は美しいもので、言うならば画面上部及び左側は、様々な事象が織り成すためのステージのようなものである。

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 東京で住んでいたアパートは狭い商店街に面した二階の部屋で、建物の端の部屋であったので窓は二面在ったが、そこから見えるものは隣家や向かいの家の壁や窓であった。斜め上を覗こうとすれば空が見えなくもなかったが、基本として見通しが悪い。しかしそれでも、往来の人通りや隣室や隣家から聞こえる生活の音などは僕の気持ちを和ませるものであった。時折は、聞きたくもないものまで聞かされる事になったりはするが、それはある程度は仕方がない。
 そういう感じで、僕は窓を開け放って過ごすのが好きなのだけれど、DVD を観たり本を読んだり何かに集中したい時は窓を閉め切る事はあった。隣家の生活が余りに近いので、さすがに煩わしかったのだ。そのような事をしている時に誰かに話しかけられたりするのが嫌いな僕にとっては耐え難い。

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 上京するまでは、僕は田舎の一軒家にしか住んだ事がなくて、団地などの集合住宅での生活に漠然とした憧れを持ってた。同じ棟の中に友達が住んでいたりして楽しそうに思えたのだ。そして上京してからは下町のアパートにずっと住んでいたので、大きな団地ではなかったが、集合住宅での生活に於いては煩わしい事も多い事を知った。
 田舎の一軒家住まいでは、家族以外の人間(特に知り合いに)逢う機会は少なく、たまに偶然ばったりと逢ったりすれば何だか嬉しくて立ち話を始めたりするのだが、都会のアパート暮らしでは、顔を合わせる頻度が高いせいか、同じアパートの住人と逢っても時々しか声をかける事はない。相手もそうなのだろうが、面倒かも知れないと思い何となく遠慮してしまうのだ。挨拶すらしようとしない人も居たので、隣人をとにかく煩わしく感じる人が多いのだろう。

 単純にそのふたつの環境を比べる訳にはいかないが、どちらも長短あって、いずれかを良しとする気にはなれない。それならば、理想的な人間同士の距離とはどういうのを言うのだろうか。考えてみても思い付かない。それは僕の経験が不足しているからなのかも知れないが、もっとこう、何かないのかなぁと真っ白な夢想をしてしまうのである。

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 住環境に於いての細かい諸条件を比較するとかそういう検証はせずに、まとまりのない事をグダグダと書いてしまったが、どのような場所に居ても、自分がもっと心地良く過ごすにはどうしたら良いのかをつい考えてしまうという習慣が僕にはあるので、これもその一環でしかない。因みにインターネットの普及は、いずれの環境に於いても悪条件を緩和しているように思う。

人と病

 先日、本屋(実際にはアマゾン)でふと目に止まった、水島広子著『「拒食症」「過食症」の正しい治し方と知識』という本を読んでみた。何故そんな事を思い付いたのかというと、これまでの人生で何人か、拒食症または過食症ではないだろうかと思われる人と僅かながらも付き合いがあったからだが、その時の己の態度に対する反省から、少しでも知っておきたいと思ったからである。その中で気づいた事を二三記す。

 ひとつには、本書は患者のみならずその家族や周囲の人々に読まれるように書かれている。その中で(そうなりがちではあるが)こういったアドバイスや言動は患者にとっては逆効果だ、という事例が幾つか挙げられているが、そのどれもを僕はかつての知人達に言ってしまっていた。しょっちゅう顔を合わせるような深い付き合いではなかったので、尋常とは思えない相手の様子に驚いてつい口に出してしまうのだけれど、確かに無知であった。
 摂食障害の専門医は今を持っても少ないとある。となれば適切な治療方法や、周囲の協力の仕方などに関して知識を持つ人を身の回りに探してもなかなか見つからないだろう。アマゾンでも推されているようなので、この分野に興味を持つ人には手に取りやすくなっているとは思う。しかしそれだけでは全然間に合わないように思う。問題に直面した人が全員、積極的に知識を得ようと書籍を紐解くとは思えない。どちらかと言えば少ないのではないだろうか。患者本人だけでなく周囲の人達にしても、なかなか認めたがらないような気がする。認知する際のストレスを出来るだけ少なくしようと思ったら、例えば摂食障害をテーマにしたテレビドラマを制作して、単発ではなく一定期間をかけて放送するとか、そういう方法が必要ではないだろうか。民放では難しいだろうから NHK で。

 もうひとつは、この本は基本的には患者の不安や心情に寄り添った形で書かれていて、折に触れては周囲の人達が知っておくべき事柄や心構えなどについて書かれている。しかし、周囲の人達に寄り添った記述が足りないように思う。知識も経験も無い人間に、或る日言い渡された通りの対応が出来るようにはなれないと思われる。本書にも触れられているが、患者と共に周囲の人達も自分を見つめ直し、徐々に成長していかなければならないのだろうから。なので別冊にて、今度は周囲の人達に寄り添った形での本があれば良いのではないだろうか。本書を読めば読むほど、患者独りではどうする事も出来ない病気であるように思えるし、医者に任せていればどうにかなるものでもないようだし、周囲の人達の、もっと言えば社会の認知が必要であるように思える。その為にもそういう本は必要ではないだろうか。

 いずれにしても、浅はかな考えであるかも知れない。広く知らしめるという事は、それだけ患者のデリケートな心情を晒してしまう事になりかねないとも考えられる。本書でも、随所に患者へ対する気遣いが窺える。

 最後に、本書でとても気になる記述があったのでそれを引用する。

 私は摂食障害の患者さんを見ると、まるで一家の問題を代表するような形で病気になっていると感じることが少なくありません。ある意味では、もっとも感受性が豊かで、もっとも家族思いの人が、摂食障害になっているのです。
 それを「家族の犠牲者」として見ることも簡単ですが、それ以上の意味があると思います。最も感受性が豊かで、最も家族思いの人は、病気になることによって、家族関係のバランスを変え、やはり家族のためになる結果を出すのだと思うのです。

 そうだとすると、これはもはやシャーマンではないか。これは摂食障害には限らない話のように思う。病という事象に対して、単に悪しきものだという考えを改めなければならないのかも知れない。

言葉の形骸化と意味の変容について

 前回の話の続きのようなもの。

 冷静な頭で考えるならば異常としか思えないあの状態を、今でも僕はたまに思い出す。弁護したい訳ではないが、もしかするとあの時のあの場では「殺せ」というのは自分達の興奮を表す最も強い言葉であったのかも知れない。勿論そこには攻撃性が多分に含まれるのだが、語彙が少なく適当な言葉を知らなかったのだろう。先日ネット上で見かけた記事では、日本に留学している或る中国人男性が「日本語には相手を罵倒する言葉が少なくて困った」という話を本国に帰った時にしていたそうだ。言われればそんな気もする。そうたくさんは思い浮かばない。直接的な言葉ではなく、遠回しな当てこすりや皮肉は多い気はする。だからこそ、強く怒りを感じたり怯えていたりする場合に、いきなり「死ね」とか「殺す」とか言ってしまうのだろう。その点に関して言えば貧しい文化である。自分の感情に対して適切な表現を出来ないのだから、幼稚だとも言えるかも知れない。

 そういうのとは別に、ネット上では本来とは違う意味でカジュアルに「死ね」という言葉が使われている。僕の知る限りでは、だいたい15年くらい前からだろうか。本来の意味で使っている場合もあるかも知れないが、「鬱陶しい」とか「腹立たしい」という意味であったり、或いは単に発言者のボケに対応するツッコミ的な意味合いであったりする場合が多いように思われる。こうなると字面では判別出来ないので、その会話の流れを読むしかないのだが、それにしたってその思考に慣れた人でないと解らないだろう。それに会話している人達の間の関係性も重要な要素で、悪態が許される場合とそうでない場合が在るだろうし、または悪態を冗談と取ってくれる間柄とそうでない間柄もあるだろう。時折だが「氏ね」や「師ね」という当て字のような表現を使う人も居る。それらはタイプミスを面白がってわざと書いているものだと思っていたが、もしかすると冗談である事を悟らせる為であるとか、それほど強い感情は持っていない事を読み取って貰う為に当て字を使っている場合も在るかも知れない。そう考えると、相手に正しく伝える為の工夫だとも思えるが、本末転倒である。
 そして更に困った事には、こういった感じの言葉を相手と対面する日常の中で使う人達が出てきた。たぶん僕より10歳くらい下の人達からだろうか。友達同士だったり恋人同士だったりする間柄で「死ね」と言い合っている。今では僕も慣れてしまったが、初めてそれを目撃した時は驚いた。よく言われる「ネット脳」とか「2ちゃんねる脳」とは違う気がする。見た目で判断するのだけれど、そういうのとは別な層であるように見える。表情や語気を伺ってみると、明らかに冗談で言っている場合もあったし、とても冗談で言っているようには見えない場合もあった。もう既に本来の意味は形骸化されていて、変容した意味だけが、しかも狭い範囲だけで通じるニュアンスを持って使われているのかも知れない。となるともう、傍から見て理解出来ようもない。もはや世代間どころか、コミュニティ間でさえ共有されえなくなって来ているような気がする。

 言葉の変容や俗語の派生というのは、元在った言葉では表現出来ない要素が出てきたからであろうと思う。しかしそれらが集約されて、感覚を共有出来る言葉として普遍化されるという事は行われないようである。こういうのが地方語化というのだろうか。相手に何かを正確に伝え、そして正確に相手の言い分を受け取るという作業は、感覚を共有出来る言語の習得と、それを使い続ける努力は必要不可欠であると思うのだが、そういう事が習慣として根付いていないのかも知れない。
 昔、通勤電車の中で、英語人である白人男性と、日本語人である東洋人女性が口論しているのを見かけた事がある。僕は毎朝、同じ時間の同じ車両に乗るのを習慣としていたので、この二人も毎日ではないがよく見かけていた。僕の記憶では、この二人は相手の母語を理解し、実際に喋ってもいたと思う。しかしこの時の二人は、お互いに自分の母語だけを使って怒気を含んだ不平を述べ主張し続けていた。自分の都合と感情のみに捕らわれた人の姿を、これほどに明確に現した光景を他には見たことがない。言葉の断絶とは大きいものなのだと、この時思った。

騎馬戦の思い出

 高校生の頃に体育祭の騎馬戦に参加した事がある。僕が通っていた高校は、文化祭と体育祭を年毎に交互に催すのが慣例で、その年は(僕は確か二年生だったと思われる)体育祭であった。そしてこの体育祭は全校生徒を(単純にクラスの番号で分ける事が困難な構造だったので失念したが)何チームかに分けて互いに競い合うのだが、何故かしら強制的に全員参加というものではなかった。大昔には公立の女学校であったという歴史を持つ故か校風は穏やかであったので、あまり競い合うような事には熱心ではなかったのかも知れない。とにかくその程度の縛りしかなかったものだから、当時の僕は斜に構え過ぎて殆ど反対側を向いているような隠れ問題児であったので、当然参加するつもりはなかったし、どの競技にも登録していなかった。
 そして当日、興味もないものだからサボっていたかったのだけれど、全校あげての行事なのでそうはいかず、仕方なしに見学に行ったのだった。どのような競技がどのように行われていたのかは殆ど憶えていない。もし憶えていたとしてもこの話には関係無い。なのでいきなり騎馬戦の話を進める。

 僕と同じように不参加を決め込んでいたクラスメート数人とスタンド席(書くのを忘れていたが、体育祭は市内の競技場を借りて行われる)に座っていたところ、背後から声がかかった。各チームを仕切っている最上級生の有志である。何度か集会のようなものを開いているので顔は知っていた。その人達が僕らボンクラに何の用があるのかと思えば、騎馬戦に出場するメンバーが足りないので出てくれないか、という依頼であった。元女学校で穏やかな校風とは言え、生徒は色んな人種が混在しているものである。ヤンキー、メタラー、パンクス、各運動部、吹奏楽部、演劇部、その他一般(地味なので何やってるのか全然知らない)と、目立つ順に書けばそういう感じだろうか。で、話を戻すと、チームを仕切っている有志というのは、その中のヤンキー(応援団として参加)と運動部(もちろん競技者として参加)という厳つい人達ばかりなので、僕らのような虚弱なメンズは割と脅威に感じており、断ると面倒な事になりそうだなとか、下手すると殴られそうだなとか考えるものだから、そうとは見せずに嫌々参加する事になった。でもそれだけではないかも知れない。座ったままぼんやりと競技を眺めているうちに、少しは興奮していたのかも知れない。

 いよいよ騎馬戦が始まる。ゲートからグラウンドに降り立ち、ハチマキを締めて騎馬を組む。後から参加した虚弱な僕らは当然ウマ役である。しかしそんな事はどうでも良い、問題はここからである。騎馬を横一列に並べ、その前に立った応援団がゲキを飛ばす。「絶対負けんなぁー!」とか「紅組を倒せぇー!」とかそんなよく在る感じで応援団が煽れば、騎馬組は「おおー!!」などと応えていた。しかしそれだけでも応援団と騎馬組の興奮は最高潮であったと思う。興奮に興奮を重ね合い、とうとう応援団の一人がこう叫んだ。「紅組を殺せぇー!!」
 若気の至りと言おうか、勢い余ってと言うか、叫んだ本人もどうしてあんな事言っちゃったんだろうと後から思ったのかも知れないが、その場では何ら不自然に思う人は居なかったのか、騎馬組も「おおおおーー!!!」と更に盛り上がって、挙げ句には応援団と騎馬組みで殺せ殺せの大合唱であった。若くて鬱屈が溜まっている連中を集めているとは言え、闘争の場というのはそんなにも人間を熱狂させるものなんだろうか。自らも参加しておいて言うのも何だけど。
 空砲が鳴り、双方の騎馬はグラウンドの中央目がけて突進する。横一列に並んでいた騎馬はグラウンドで入り乱れ、闇雲に間近に居る相手チームの騎馬に組みかかる。組み合った騎馬は、馬上の人間が両手をがっしりと掴み合って相手をウマから落とそうとあの手この手で応戦する、というのがテレビやなんかでよく見る騎馬戦だが、普段からエネルギーが有り余っている上に興奮の絶頂に在る高校生男子達であるからして、組み合う前に手が出る。しかも馬上の人間だけではなくウマも手を出す。拳を振りかざすような派手な殴り合いではなかったと思うけど、少なくともお遊戯には見えなかった。僕はと言えば、相手のウマが突き出した手の平で顎を殴られ、頭がクラクラしていた。

 競技自体はあっさり終わったように記憶している。恐らく僕らのチームが勝ったのであろう。何故なら、応援団の先輩達が「おまえらよくやった!オレは嬉しい!!」と男泣きに泣いていたからである。僕はその光景をただ何となく眺めていた。このような小競り合いを殆どの男子生徒が経験するのだから、その後の学校生活に支障が出たりしないのかと心配になるが、僕の知る限りではそんな事は全然無かった。かと言って、頭が冷めれば全てを水に流せるというものでもなかった。僕を殴ったウマ(他クラスのバスケ部で、1年の時は同じクラスだった)と廊下で擦れ違う度に「あ、オレを殴った○○だ」と定冠詞付きで名前を思い出すくらいの事はあった。でも、それだけ。そういう事も含めて、あれは一体何だったのだろうと不思議に思える訳である。

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 同じものだと思っている訳ではないが、先日の東京は新大久保で行われた反韓デモの動画を見ていて、そんな事を思い出した。

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