DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 数々のアニメ映画を介して、ディズニー趣味はアメリカ中に、そしてアメリカの文化的覇権に沿って世界中に広がった。それと同じように、そのアメリカの覇権の媒体であるセルアニメの肌合いにエロスを見出し、変質・同化させようとする手塚の眼は、手塚自身やその影響下にあった作家たちの漫画やアニメを介して、国内に広範に伝染したはずである。アメリカと日本の階層的な関係が、その背景を成している。それがアニメ絵の美少女とは、構造的にはディズニーアニメの卑猥なパロディ、オタク用語で言うなら、ディズニーの「アニパロ」なのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 p.111

 しかしこれと同等以上に重要なのは、日本のアニメがディズニーが排除してきたものを、むしろ中心的なモチーフに据えてきたということである。しばしば半裸になって性的関心を惹起こさせる美少女キャラクターと、戦闘を繰り広げるロボットである。これらはいわば、性と暴力である。輸出先の欧米やアジアで「性的だ」「暴力的だ」という反応を引き起こしている所以である。”ANIME” という呼称の定着とともに欧米で寄せられている “ジャパニメーション” への関心は、この二つの要素にほぼ集約されると言ってもよい。前章で触れたように、ガレージキットの二大モチーフとなっていったのも、他ならぬ美少女とロボットである。
 ではなぜ、美少女とロボットが日本のアニメの中心的要素となったのか。世界名作童話シリーズのようなディズニー趣味をそのまま受け継いだようなアニメだけでなく、『セーラームーン』や『エヴァンゲリオン』のようなものが現れ、むしろ中心を成しているのか。
 ロボットが中心的モチーフとなっていったことには、日本のアニメの多くが玩具メーカーの広告番組としてつくられざるを得なかったという背景がある。ロボットのデザインから、シリーズの後半に主役ロボットがより強力な二代目に交替するというフォーマットにいたるまで、スポンサーの意向が強く反映されている。そして玩具化されるとう前提は同時に、そうしたロボットに呪物的な魅力を帯びさせることを要請した。「マジンガーZ」「ゲッターロボ」「ゴットマーズ」といった主役ロボットの神がかったネーミングに、それは表れている。(「ゲッター」はドイツ語で「神」の意)。本質的にそれらキャラクターはロボットでも兵器でもなく、神像、あるいは偶像なのである。そしてこの呪物的魅力、あるいはフェティシズムこそが、広告効果の射程を超えて、日本のアニメそのものの基調として展開されていくようになったのである。
 斎藤が注目した ”戦闘美少女” は、この日本のアニメの発展過程の内に発生した、二大モチーフの混成物である。美少女が戦い、しかも決してフェミニスティックな「強い女」にならず、可憐な少女であり続ける。それは美少女とロボットを掛け合わせてできた、極めてフェティシスティックな産物である。実際、彼女らはセーラー服をアレンジしたコスチュームをまとったり、クローン人間であったり、あるいはアンドロイドだったりする。アニメーションが本質的に持っている高度に人工的な性格が、アメリカでは完全主義的で衛星思想的な、日本ではフェティシスティックな指向性をもって開拓されていったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.107-108

 ディズニーはアニメ初のトーキーで音を付け、マルチプレーン・カメラとテクニカラーの導入で映像に奥行きと色を与え、初の長篇映画の制作によってドラマを与えた。総合化へ向けた指向性でもって、急激に技術革新が推進されたのである。そしてそのような情報量の増大はセル画のフラットさを逆に際立たせ、一つのスタイルへとそれを昇華させた。セルアニメは総合化の推進と同時に、ひどく人工的で清潔な、それまでにない特有な映像世界を出現させていったのである。
 ここで重要なのは、なぜそのような衛生思想めいたスタイルをディズニーが採択していったのかということである。これと関連して注目すべきなのは、ディズニー映画を特徴づける、残酷さや性的な要素の徹底的な排除である。白雪姫やシンデレラなどの、残忍さに満ちたヨーロッパのオリジナルの童話と照らし合わせてみると、ディズニーがまるで異質なものにそれらをつくり換えていることがよくわかる。
 そこには、昔から指摘されてきたヨーロッパとアメリカの子供観の違いをみて取ることができる。ヨーロッパでは子供を大人未満の忌むべき存在に位置づけてきたのに対して、アメリカでは子供の純真無垢さを尊び、そこに聖性すら見る。その子供のイノセンスの祝福を基調とするディズニー趣味は『E.T.』などのスピルバーグ映画を筆頭に連綿と受け継がれており、アメリカの大衆文化の一翼を占める、「ディズニー分化」とも言うべき系統を成している。
 ディズニー趣味の潔癖さは、エログロに傾く大衆文化の一般的な傾向に照らして、大変特異なものである。それは、もともとピューリタンらプロテスタント信者が理想的な共同体を築きに入植して形成されたアメリカの白人人口の、宗教的風土と完全主義的なユートピア志向を土壌にしている。ディズニー自身が厳格なプロテスタント信者であり、残忍さや性的要素の排除は、彼の宗教的道徳観の反映でもある。そしてこの完全主義的なユートピア志向性が、セルアニメーションという高度に人工的な映像技法を発達させる土壌ともなったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.103-104

 いまさらオタクを擁護したり、コマーシャリズムを批判したりするつもりはない。ただし、オタク趣味が蔑まれてきたことには、商業資本の原理が強く介在していた。このことは、本書で見ていく都市風景の分化に大きく絡んでいるので、敢えて指摘しておきたい。
 後の章で詳述するが、大手商業資本による開発が街を海外指向に染めるのに対し、オタク趣味はメイド・イン・ジャパン指向に染める。このように対比させると、オタク趣味をナショナリスティックに持ち上げようとしているようにとられるかもしれない。しかし仮にオタクがプチナショナリストになりがちな傾向があったとしても、それはあくまで副次的なことである。愛国心からオタクになる人などいない。人格や趣味の方が、思想や主義などよりよほど根深い構造を成している。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 p.35

 日常の食料としていた鶏については六畜の一つとしながらも、実際の運用対象から外し、問題がないとした。残る五つの家畜ーー馬、牛、豕(豚)、犬が穢の対象になった。羊は日本にいなかったが、海外から天皇に献上された記録はある。六畜の死体に直接触れなくても、同じ建物や床下に死体があったら死穢になる。産穢も同じ。穢は伝染するとされていたので、触穢の人は外出もはばかられた。六畜の中でも、とくに問題を起こしたのが犬だった。犬の死、お産による穢れだけではなく、犬による咋い入れ(骨肉片持ち込み)も穢れとされた。朝廷から伊勢神宮への奉幣使派遣は、犬の死穢・産穢により、しばしば中止または延期された。
 清和時代は死も穢の対象とされたが、醍醐天皇の『延喜式』の時、狐は穢れから外された。その一方、鹿、猪を食うことが穢れになるかならないかが問題になり、朝廷は、鹿猪は六畜に準じて穢れの対象になるとした。これで朝廷、貴族社会での獣肉食の禁忌は決定的になった。昔の日本人が肉食を嫌ったのは仏教の影響だとよく言われるが、実際はもっと複雑な要素が絡み合っている。神道や陰陽道の影響も無視できない。以後、日本の社会はさまざまな形で、この制約にしばられることになる。

仁科邦男著『犬の伊勢参り』平凡社新書 2013年 p.117

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