斎宮の女御(六条の御息所の娘)が、秋雨の降るころ、二条院に里下がりした。源氏は御息所の思い出を語りながら、春秋の優劣論を楽しむ。女御は秋を好むと答え、のち「秋好中宮」と呼ばれるようになった。
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』角川文庫 2001年 p.179
斎宮の女御(六条の御息所の娘)が、秋雨の降るころ、二条院に里下がりした。源氏は御息所の思い出を語りながら、春秋の優劣論を楽しむ。女御は秋を好むと答え、のち「秋好中宮」と呼ばれるようになった。
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』角川文庫 2001年 p.179
よろづのこと、来し方行く末思ひ続け給ふに、悲しきこといとさまざまなり
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』角川文庫 2001年 p.128
浅草オペラの熱狂的なファンは文なしの若者がほとんどだったが、彼らを指す特別の言葉が生まれた。「ペラゴロ」という呼び方である。語源については諸説あって、最初の「ペラ」が「オペラ」から来ている点では意見が一致しているものの、後半の「ゴロ」については、「ジゴロ」の略だという説もあれば、「ゴロツキ」の意味だという人もいる。いずれにしても、「ペラゴロ」連中は公園のあたりにたむろし、夜な夜な劇場に通いつめ、贔屓の歌手には金も貰わずにさくらの役をつとめて拍手喝采を送り、徒党を組んでは、単に歌い手を熱狂的に応援するばかりか、グループ同士で張り合い、時は喧嘩になることさえあったらしい。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.370
銀座の商人が、畏れ多くも天皇の宸襟を悩ませたという事件もあった。明治二十二年、博覧会の開会式に臨席されるために上野に行幸の途次、天皇はとある銀座の店の看板に目を止められた。読めない文字があったからである。店主の名前ははっきりわかるが、商品の名前が読めない。侍従を遣わして御下問になったところ、戻ってきた侍従が報告するには、問題の品物はカバンであるとう。店主は「革」と「包」とを組み合わせ、これに、物を入れる包みという意味の中国語、「きゃばん」の音を当てたのである。陛下じきじきの御下問に恐縮した店主は、以後、看板にカナを振ることにした。店は有名になり、同時に「鞄」という字も日本語として定着した。件の看板は、残念なことに震災で焼けてしまった。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.274
「花柳界」とう表現はもともと李白の詩句に由来し、花街の女性を花と柳に譬えたたものだが、やかましく言う人はこの二つを区別する。今ではほとんど忘れられているけれども、元来、花は遊女、柳は芸者を指したという。ただ、この区別が広く行われたことは一度もなかったし、かりに理屈の上では認めても、実際にはたちまち曖昧になってしまった。そもそも「芸者」という言葉は、日本語の中でいちばん定義のむずかしい単語の一つだ。荷風も芸者という言葉自体、それにこの言葉の指す観念もまた、殊に明治の山の手の色街では堕落したと嘆いている。なるほど芸者の中には、まるで修道女さながら禁欲的に芸に身を捧げる者もいたけれども、芸者とは名ばかり、なんの芸があるのかと問われれば困る者も多かった。こういう「芸者」は、値段さえ折り合えば身を売った。けれども江戸の花魁は、時には驚くほど高い教養と技芸を身につけていた。彼女たちの手になる絵や恋文が今も僅かに残っているが、そうしたものを見れば、その教養の高さは歴然としている。
こうした曖昧さはあるものの、少なくとも江戸期の吉原では、客をもてなす手の込んだ手順の中で、芸者と花魁はそれぞれに別の役割を分担していた。お大尽の豪儀な一夜の歓楽のうち、芸者は宵のうちに歌と踊りを披露し、夜がふければ花魁の出番になるわけである。
明治から大正へと進むにつれて、遊郭の芸者は次第に衰え、遊郭以外の芸者のほうが盛んになる。遊郭はただ色を買うだけの場所になってゆく傾向が強く、もう少し上品な楽しみを求める時には、金のある連中はむしろ料亭街に出かけ、芸者を呼ぶという形に変わってきたのだ。この変化がいちばんはっきり現れたのは引手茶屋の衰微だった。格の高い妓楼では直接には客を入れず、金のある客のほうでもいきなり登楼することなど考えない。まず茶屋に入って、そこで手筈が整えられる。当然、茶屋は芸者や幇間との結びつきが深かったし、伝統の仕来たりを守る上でも大きな役割を果たしていた。このお茶屋が衰微するにつれて、遊廓がただ売色だけの場所になっていったのも当然である。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.231-232
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