DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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Postcolonial African Literature Article – Essays Postcolonial African Literature African literature published while in the postcolonial period by experts of African descent. General to the time between 1970 and 1960, during which occasion many African countries gained political freedom rulers are referred in by postcolonialism in Africa. Several experts publishing even, and during this time during colonial situations, found themselves as political activists and both artists, and their works resembled their issues about their countries’ political and cultural problems. Continue reading

2014年ワールドカップサッカーブラジル大会決勝戦雑感

 14日早朝、薄い頭痛と共に目を覚ました僕はテレビを点けた。アルゼンチン対ドイツの決勝戦を観る為である。それまでの放送は余り熱心に観ていなかった。なにしろずっと体調を崩していたので、睡眠時間を削って真夜中や早朝の放送を観たいとは思えなかったからだ。しかし決勝戦くらいは、と思って無理矢理起きたのだった。それでも、試合は面白かった。相反するスタイルのサッカーが拮抗し延長戦までもつれ込んで、ドイツの若いストライカーの一蹴りでとうとう勝負がついた。
 ドイツ側の選手もスタッフも観客も、雪崩のような爆発的な喜びを全身で表し、ピッチやスタンドを席巻した。あれほどまでに歓喜に満ちあふれた人々の姿はなかなかお目にかかれない。何となく、ベルリンの壁が崩壊した際のニュース映像を思い出した。あの時ドイツの人々は次々に壁の上によじ登り、諸手を掲げ、旗を振っていた。上に登った者が地上の者を引き上げ、肩を組んでは声の限りに歌い上げていた。解放され、喜びに満ちた人々を眺めるのが僕は好きである。事情は違うが、オリンピックの閉会式も同じ理由で好きだ。ワールドカップはそういう映像を流す事が少ないが、オリンピックでは延々と閉会式の映像を流すので、僕はそれをぼうっと眺め続けていたりする。ただ単に調子に乗ってる連中を見ても腹立たしいだけだが、それが努力の末のものであったり、長い間待ち望んだものであったりする場合は別である。何となく羨ましい。その立場に居ない自分が口惜しい。そんな気分にもなる。あれほどまでに喜べる機会を持てる特権を、どれほどの人が有する事が出来るのか。

 ところでアルゼンチン側。スタンドの観客は呆然としたまま立ち尽くし意気消沈していて、スタンドの最前列で齧り付きで応援していた少年は泣きじゃくっているし、選手達の中には突っ伏して泣いている者も居た。なかなかに残酷な映像だった。しかし、ドイツチームが優勝記念の写真撮影をする頃になると、アルゼンチンの選手達は立ち上がり一カ所に集まってきた。こちらもメディア向けの撮影の為だと思われるが、フロントにメッシが立ち、数歩後ろに監督、その背後を覆うように他の選手達が立っている。もともと彫りの深い顔立ちである上に、負けたばかりなので皆表情が暗い。しかし誰もが前を見据え(恐らくドイツチームを見ていたのだと思うが)一言も喋らずにただ立っていた。呆然とした雰囲気は全くない。そこでメッシがペットボトルの水をぐいと飲む。何だか、映画で描かれるマフィアのようでカッコ良かった。既に四年後に向けて闘志を燃やしているのだろうか。四年後の大会の決勝戦の後で、彼らの喜ぶ姿を見たいものだ。そう思った。

晩秋の小径

 現在居候している実家を父が建てる前は、少し離れた場所に在る古い一軒家を借りて家族で住んでいた。で、その数年前にはそのすぐ近くの更に古い一軒家に長い間住んでいたのだけれど、平成三年の台風17号・19号により屋根が半壊してしまったので、急遽前述の借家を父が何処からともなく借りてきた。その二つの一軒家は同じ道沿いに在ったので引っ越しは容易であったが、近所の風景が変わり映えしないので、住む場所(世界)を変えるという昂揚感は薄かったように思う。前の家は袋小路の行き止まりの手前に在り、後の家はその袋小路の入口に在った。
 その一帯は、その縦横に走る道の幅や曲がり具合からして、車を通す事を念頭に置く事すら考えないくらいに古くからある民家が寄り集まった場所のようで、敷地の広さも、家屋が建てられた年代も様々な家々が立ち並んでいた。話を戻すと、その袋小路へ繋がる道と、クネクネと曲がる小径(軽自動車がようやく通れるくらい)が交わるT字路の角地に僕の家は建てられていたので、二階の窓からは、視界は狭いがわりと良い景色を眺める事が出来た。

 そして、僕の家の道向こうの古い人家には、庭に柿の古木が在り、その枝々は小径の半分くらいを覆っていた。柿の木と言えば、夏には黒くて毛の長い毛虫がよく幹を這っており、刺されるともの凄く痛い。「ヂカヂカヂカッ」と擬態語とも擬音語とも言えないが、そういう音で表現出来るくらいにその痛みに特徴がある。もうとにかく痛い。秋も深まれば実を結ぶが、誰も収穫しないところを見るとどうやら食べられない種類のようだし、晩秋ともなれば熟れすぎた実が地面に落ち潰れ、辺りに甘ったるい腐臭を撒き散らす。良いところなど一つもないので僕は柿の木が嫌いであったのだが、何故かしら今でも、晩秋の頃の肌寒い空気の中に満ちるその匂いや、葉も落ちて変貌した黒く湿っぽい樹木の立ち姿を思い出す。そして今ではもう、それが嫌な思いとしては蘇ってこないのだ。何故だろうか。子供の頃から成人するまで毎年のように嗅ぎ、見ていたので擦り込まれてしまっているのだろうか。いつの時も晩秋と聞いて思い出すのはそれなのだ。

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 場所変わって、東京で住んでいたアパートの前には子育て地蔵尊が在り、その脇の小径を歩いて行くと右側の人家の庭にも柿の木が在った。そしてこれもブロック塀を越え枝が道路まで延びていた。風情としては良いのだけれど、道路側に伸びた枝の手入れをしないというのは、何かそういうスタイルが世の中に在るのだろうか。その柿の木も古かったが小振りなもので、結ぶ実も多くはなかった。しかしやはり、熟れすぎた実はアスファルトの上に落ち、そのままにしてあった。たぶんその頃からだろう、そういう始末の仕方もその季節の記憶となると、良いものであるのかも知れないと思い始めたのは。少なくとも、橙色を通り越して朱色となった柿の実を、灰色の寒空を背景に見上げるのは良いものであった。
 しかし、僕が東京を去る一年ほど前にその人家は建て替えられ、柿の木も切り倒された。

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 少し気になったので今日、僕が以前に住んでいた家を自転車を漕いで見に行った。その場所へと続く道の入口を見落としてしまうくらいに一帯は様変わりしており、僕が住んでいた家も含め、おおよそ半分くらいの人家が建て替えられていた。柿の木の在った家はかろうじてそのままであったが、柿の木は何処にも見当たらなかった。
 こうして思い出の場所は別なものに差し替えられ、思い出もやがて薄れてしまう。そしてその思い出を持つ人間が死んでしまえば、それはもう存在しなかったのと同じ事になってしまうのだ。

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 2007年に、その家に住んでいた当時の事を記事に書いているのを思い出した。よく見たら台風の番号を間違えている。「脳幹を巡る音楽

クラウド・ダイアリー

 先週 Tumblr に流れてきたこのテキスト。

俺は日記は書かない。人のコメント欄を日記として使う。誰にも全体を俯瞰することはできない。これを「クラウドダイアリー」と言う。
@himanainu_kawai ヒマナイヌ川井拓也

 これ読むと、何だかワクワクするな。ローカルにテキストを残しておけば自分は全てを把握出来るものね。物事は、というか、個々の所在がすべからく流動的である事で、何かしらこれまでにない価値観が生まれて来そうな気がする。

便所本

 誰しも自宅でウンコをする際には何かしらの本をトイレに持ち込むだろう。持ち込まない人も居るかも知れないが、そういう人はきっと多いと思う。僕にしても余程切羽詰まった状況でもなければ大概は本を持ち込む。便意を催したらトイレではなく先ず本棚に向かって、適当な書籍を選び取った後に初めてトイレに向かう。
 さて、このトイレに持ち込む書籍はその用途をしてかなり厳選される。先ず小さい事。文庫本サイズが望ましい。僕の部屋はユニットバスで、それにトイレも含まれており大変狭い。扉を閉めてしまえばその息苦しさに用も足せない程だ。そんな空間に持ち込む書籍は小さいに越したことはない。次に短い時間で鑑賞し終える構成である事。時間にして数十秒から長くて3分。これだと小説や漫画の類は無理。エッセイ集や雑誌もギリギリ駄目だ。その本から何かを得るのに時間が掛かかるものは適さないし雑誌は大き過ぎる。そう考えると写真集か詩集になるだろうか。色々試したが、以下に僕の定番便所本を掲げる。

新宿+ / 森山大道: 写真集「新宿」の文庫版。森山大道の写真集の中では一番キャッチーだと思う。しかし版のサイズは良いのだけれど厚さが5cmもあるので少々扱い難い。そのうちに頁がバラけてくるんじゃないかと思う。

今日のつぶやき / リリー・フランキーとロックンロールニュース: リリー・フランキーのHPのコンテンツを書籍化したもの。ホントに一言だし、適度に下品なところが良い。これが「誰も知らない名言集」だと少し長過ぎる。

TOKYO STYLE / 都築 響一: 東京における住空間の混沌と美を集めた写真集。僕はお洒落で高級な住空間より、こんなにも創意工夫に溢れ、人々の生活の機微が目に見えてくるような空間の方が好きだ。とても暖かい。

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 余り関係ないけど、松本大洋の「青い春」の単行本の帯に「不良本である」とあって、なんてカッコ良いコピーなんだ!と思った記憶がある。このエントリのタイトルはそこからの流用なんだけど、そこまで知っていてその本は持ってない。でも内容は知ってる。何故だ? 因みに映画版のDVDは持ってるがそこには出てこない。不思議だ。

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