DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Author: doggylife (page 40 of 193)

春燈

 先日観たので少し書き留めておく。

 前回観た「藏」とこの「春燈」そして「櫂」は、宮尾登美子原作の NHK ドラマ三部作のような扱いになっているが、最初の「藏」の原作本が発刊されたのは1993年で、「春燈」が1988年、「櫂」が1972年と、何故かしらドラマは原作の執筆時期を遡るように制作されている。しかしまあ、その事自体にはさして意味などないだろうから流すとして、女衒の家に生まれたこの物語の主人公は、成長するにつれて父親の職業に疑問を持つようになり、その職業故に進学に支障を来し、友人を失う。父親の呪縛から逃れようと決心し遠く離れた分校に教師として赴任するも、そこでも権力者である父親の影響下から出る事が出来ていない事実に絶望した主人公は、夫を説得し満州へと渡る。というのがこの物語の粗筋であるが、これは原作者の半生と重なる。
 最終話において、確執の行き詰まった父娘は口論を極め、「何故そんなに俺を嫌う?」という父の悲痛な叫びは宙へと消える。お互いに決して譲る事の出来ない想いを持ち続けた、長きに渡る父娘の愛憎の物語であった。

 「藏」の場合、そのタイトルはまず酒蔵を指すのだろうし、次に蔵の中の暗さと視力を失った主人公の世界の暗さを重ねたものであるだろう。では「春燈」にはどのような意味が込められているのか。かつて俳句雑誌に「春燈」というものが在ったようだけど、余り関係なさそうである。ドラマのオープニングで、遊郭の軒に下がる提灯が印象的に映し出されているが、これかも知れない。「春を販ぐ」場所である遊郭の「燈り」だ。遊郭の軒下でその燈りが風に揺れる様と、その家に縛られた主人公の人生を重ねる事は出来そうだ。

るろうに剣心

 アクション映画好きの友人から面白いと聞いていたし、TBS ラジオの番組「たまむすび」のゲストコーナーにて、この映画にアクション監督として携わっている谷垣健治が出演して話している内容を聞いて興味を持った。近所のレンタル屋に置いてあったので早速借りて観てみたのだが、確かに面白いし殺陣の場面がとても良かった。先の番組で谷垣健治が、まとめると大体次のような事を言っている。

 実際にそのアクションの動きが速いという事もあるけれども、タイミングで早く見えるという事もある。例えば会話において、お互いに相手の発言に被せるように発言していくと、その会話は速く感じる。それと同じで立ち回りの場面でも、相手の動きに対して被せるように動き、それを繰り返すと相対的に速く見える

 これは殺陣の演技の速さについて話したもので、他にも色々とやり方があるそうだ。この要素は続く二つの続編まで徹底されているが、僕は取り分けこの最初のヤツが好きである。例を挙げるなら、冒頭の鳥羽伏見の戦いでの場面で、佐藤健が演じる緋村剣心が旧幕府軍の歩兵を矢継ぎ早に斬り捨てていく場面が良い。もう一つは、逃げ出した蒼井優が演じる高荷恵を捕まえようと、吉川晃司が演じる鵜堂刃衛が警察署へ乗り込んで警官達を斬殺する場面も良い。前者は全体が奔流のようであり、後者は全体が舞踏であるかのようだ。立ち回りを現代的に突き詰めていくとこうなるのだなあ、という印象。何れにしても暴力をエンターテイメント化したものなので、そういうのが苦手な人には良くも何ともないと思うが。

 で、話はアクションから離れて、原作漫画を含めこのシリーズのテーマは「生き抜くこと」「生きようとすること」だと思うのだけれど、それはある場面で明瞭に表現されている。幕末の京都にて緋村剣心が抜刀斎と呼ばれ人斬りをやっていた頃の回想場面があって、暗殺の対象となる人物の中に祝言をあげたばかりの若い侍がいた。その侍は何度斬られても立ち上がり「俺には大事な人がいる。死ぬわけにはいかないんだ」と繰り返す。断末魔の咆哮の果てにもがき倒れ動けなくなったその若い侍は、道端に落ちた一片の桜の花びらを手に再び繰り言を口にする。剣心は侍にとどめを刺すが、深く動揺し、疲れ果て、震えながらその場を立ち去る。14年後でも剣心はその事を何度も思い返してしまうほどに重要な場面であるが、その侍の姿が胸を打つ。自分を斬った相手に対する怒りや憎しみよりも、自分がこの瞬間から先は生きられない事に対しての悲しみや悔しさが増して、喉を震わせ声を潰していく。初見ではそんな様子を見ているのがツラいと感じていたが、後から段々と気になってきて、結局何度か繰り返してその場面を観た。失いかけたものに対して縋ろうとする人の姿に弱いのかも知れない。

 追記 2015.03.27:書き忘れていたのだけれど一作目の最後の方で、武井咲演じる神谷薫を助けようとして追い詰められた緋村剣心が、鵜堂刃衛に向かって「遊びはもう終わりだ。殺してやるからかかって来い」と人が違った様子で言うところが格好良いと思った。

 正月過ぎた辺りに NHK で去年末に亡くなった宮尾登美子の追悼番組でドラマ「」が一部再放送されたのを観て、そのうちに観てみようと考えていたのだが、つい先日近所のレンタル屋に陳列されているのを見つけたので観てみた。
 全六回の前半、つまり主人公の烈が幼少である時期の物語は退屈に感じたが、烈が成長し、松たか子が役を演ずるようになってからは引き込まれるように観た。僕は昔から宮尾登美子原作の映画やテレビドラマを好きで観ていて、共通して描かれている社会や伝統に押し潰されまいと懸命に生きる女性の姿は、もちろんこのドラマの中にも見る事が出来る。例えばこの NHKサイト のこのドラマのページを見るとこうある。

日本の伝統は繊細に美しく、時に残酷である。日本の女性はその重さの中で生きてきた。

 もしかするとこの感覚は非難を受けるようなものなのかも知れないが、こういう状況設定だけでも「美」を感じ取ってしまうし、登場人物に関しては「可憐」という言葉を思い浮かべる。
 そして、松たか子が演ずる烈は病のために失明しているが、何故かしらその演技から目が離せないのである。原作では、烈は14歳の時に完全に失明している。松たか子が演ずる時の烈が何歳の設定であるのか判らないが、恐らく十代だろうと想像する。とすれば、失明してからそうまだ長くは経っていないので、盲目の状態に慣れていない様子も演出されたのだろう、所作に戸惑いの表情が加味されているように見える。僕の近くに視力を失った人が居た事がないので、あの演技がどれほどに実際に沿っているのか判断のしようがないけれど、父の意造や叔母の佐穂と話す時に烈の顔は、もしかしたら耳を相手に向けようとする為に、あらぬ方を向いていたり、家の中を歩くときには両手を前に伸ばし、自分の行く先に空間が存在する事を確かめながら歩いたりする。他の登場人物達やこのドラマを観ている僕とは別な、暗闇の世界に生きる烈が、どうにか接点を探そうと賢明になっているように見え、その姿が心を打つのである。そしてその吐き出される言葉は懇願のようであり、烈を覆い尽くす闇の深さが感じられる。そのような人間の姿に、僕は目を向けないではいられなかった。

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 主人公の烈とは別に、先妻亡き後に意造の元へ嫁いだせき役の洞口依子の演技も良かった。狡猾ではあるが、ものを知らず、だらしのない性格の持ち主で、まんまと嫁いだは良いものの、やがて社会の伝統や家の慣習に押し潰され、命からがら逃げ出す。主人公の烈と、叔母の佐穂、そして後妻のせきはこの物語の軸となっている。

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 先に、このドラマの存在を追悼番組で知ったと書いたが、その時僕は母と一緒にその番組を観ていた。そもそも母が宮尾登美子のファンで、大昔に母の本を借りて読んだ憶えがある。何を読んだのかさえ覚えていないが、それから随分経ち大人になった頃に、ふと思い立って宮尾登美子原作の映画を観たらすっかり魅了されたしまったのだ。
 話を戻すと、ドラマは第一話をそっくりそのまま再放送するという形で流されたのだが、オープニング曲の一音が流れた途端、居間でテレビとは別な方を向いていた母が「これ、藏でしょ?」と声を上げた。たったそれだけで判るとは、よほどこのドラマが好きだったのだろう。このドラマで初めて松たか子を知ったとか、いろいろと喋り始めた。
 オープニングの曲が非常に印象的であるので少し気になった。ギターの音のように聞こえるが、それにしては音の響き方が少し違うようで、同じようにつま弾く楽器の琴とも違う。NHK のサイトにクレジットがあるので見てみると、深草アキという人が音楽担当であるようだ。調べるとサイトが在った。そのサイトを読み進めると、あのギターに似た音色を出す楽器は中国の古楽器「秦琴」というものであるようだ。ドラマのサウンドトラックを全てやっているようで、上記のページではダイジェストでそれを聴く事が出来る。繰り返し聴いていると、だんだん染みてきた。買って通しで聴いてみようかと考えている。

三味線の音色

 先日、博多座にて「伊達の十役」を観てきた。歌舞伎を久しぶりに鑑賞する事が出来たというのもあるが、博多座に入るのも初めての経験であったので、色々と楽しむ事が出来た。
 そしてこれは今回に限らず、歌舞伎を観覧すると毎回思う事だが、とにかく三味線の音色に関心させられる。歌舞伎の伴奏音楽なので清元だと思うのだが、華やかで、軽やかで、乾いた音を出すかと思えばまとわりつくような感じを受ける事もあるし、三味線は本当に心地の良い音を出すのだなあと思いながら聴いていた。あまりに伴奏に気を取られて台詞を聞き逃してしまったりもする。しかしどうしてこんなにも心地良く聞こえるのか、その訳を知りたいものだと考えながら眺めていたのだが、よく判らない。劇場で聴くと、音は曲線的に聞こえる。一音一音が弧を描き、それらが連なると揺れながらくるくると回転し始める。大袈裟かも知れないが、僕にはそのように聞こえるのだ。

 例えばこの動画。歌舞伎の時とは配置が違うが、演奏しているものは大体このようなものだ。しかしこれでは、現場で聴いた時のように音に広がりがないし、あの幸福感のようなものが感ぜられない。ちゃんとした録音ではないから仕方がないけど、これは CD で聴いたらちゃんと聞こえてくるのだろうか。清元を CD で聴いた事はないので何とも言えないが、何となくだけどあの感覚は再現されないんじゃないかと思う。演者と視聴者との距離などがきちんと配慮された劇場の音響設計があってこそではないだろうか。僕の場合は三味線だけが殊更に美しく感ぜられるが、他の楽器や歌唱も特別な音質として聞こえているのかも知れない。
 あと考えられるのは、その場に自分が居る事の昂揚感も手伝って良く聞こえているのだろうという事。他のジャンルの音楽のコンサートでも、演劇の舞台でも、スポーツ観戦なんかでも、現地に身を置くという事がより強い印象を植え付けていると思うので、その点は致し方ないと思える。一応 CD を買って聴いてみようとは考えているが、それで満足できないとなると、あの音色を聴くためには劇場に足を運ぶしかない。

 とこんな事を書き連ねていると三味線しか聴いていなかったように読めるが、そんな事はなく舞台もちゃんと楽しんでいたので、次の観劇を楽しみにしているのである。それがいつになるのかは判らないけど。

グスターボ・ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

 最近また視聴する機会があったので、この際に何となくまとめておく事にした。

 最初にこの動画を観たのだったと思う。それで、この動画を観るきっかけになったのは一体何だったか。たしかこのような記事を読んで興味を持ったのだったと思う。これは当時読んだ記事ではないが、該当の記事では「のだめのSオケのパフォーマンスは、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラのからヒントを得たものである」くらいにハッキリ書いてあった。「のだめカンタービレ」のドラマは2006年10月からの放映で、2006年からドゥダメルはシモン・ボリバル・ユース・オーケストラを指揮しているようので、その頃からベネズエラや海外ではあのようなパフォーマンスをやっていたのだと考えると、その可能性はありそうだ。因みに今話しているのはドラマ版のだめカンタービレの第四話、Sオーケストラ演奏会の様子である。更に因むと、原作の漫画版では第三巻の内容で、これは2002年が初版である。パフォーマンスもずっと地味で、これはあまり関係なさそうだ。

Wikipedia – グスターボ・ドゥダメルWikipedia – シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

 上に載せた動画は2008年12月にドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラが初来日した時の映像のようだ。おそらくテレビで放映されたものなのだろう。当時の公演のインフォメーション・サイトがまだ残っていた。解説も期待感をかなり呷っている。しかし、動画のコメント欄には指揮者とオーケストラはノリノリなのに客が冷めていて勿体ない、というような書き込みも出てくる。でも何のコンサートでも日本人はそうなので、決して受けなかった訳ではないと思う。客までもノリノリだとこんな感じになるらしい。カラカスはベネズエラの首都である。

 ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラを育てたエル・システマに関する映画もあって、それは未視聴なのだが、YouTube にトレイラー動画が在った。これだけでも様子が掴めると思う。

Wikipedia – エル・システマ

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 これはBBC プロムスという英国の音楽祭におけるアンコール演奏の様子なのだが、アンコールでオーケストラはベネズエラのナショナルカラーを使ったユニフォームに着替えて出てくる。この映像に限らないのだが、オーケストラのメンバー達の表情がとても誇らしげである。上のリンク先の内容と重複するが、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの概要を記す。

 「エル・システマ」を実践するFESNOJIVが1999年に設立。エル・システマは、元政治家で経済学者のホセ・アントニオ・アブレウ等の提唱により1975年から始まった。
 エル・システマ生徒の中には元ストリートチルドレンで麻薬の密売や強盗を経験した者もいるが、こうした者を更生させたり、放課後に子どもたちを音楽に従事させることで犯罪から守る役割を果たしている。エル・システマのモットーは、”Tocar y Luchar”(奏でて戦う)である。
 FESNOJIVは、現在ベネズエラに200もの青少年オーケストラを運営している。14歳未満の子どもたちからなる児童オーケストラ、14歳から25歳までの青少年からなるテレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ(2009年設立)などである。その中から選抜されたメンバーで組織したのがこのオーケストラである。オーケストラのメンバーは25歳以上の青年からなる。

 文中にある団体「FESNOJIV」の理念にもあるように「貧しい子供達のための、クラシック音楽に拠る無料の教育」の成果なのである。

 ここからは僕の勝手な想像に過ぎないが、このオーケストラの団員であること、そして自分自身であることへの誇りがこうした表情に顕れているのではないだろうか。彼らの演奏を聴いたり、その様子を観たりすると、自分の中から「嬉しさ」が湧き上がってくる。それは彼らの中に喜びが溢れていて、それが美しい音となって流れ出し、しかしそれでも全然足りないので、ドゥダメルの指揮の元、半ば統制されたパフォーマンスとして発露しているからではないだろうか。

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