さて、それから三度、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されるなどという波瀾万丈の人生を経た岡村氏と再び遭遇する事になったのだが、果たして、全体の印象を述べるなら、氏は相変わらずだった。アルバムを出さないので、演奏する曲は近年に出したシングル数曲を除いては以前と変わりはないし、氏自身の見せ方も変わりはないし、時折差し入れてくる台詞もそのままであるように思う。ただ、やはり氏も歳を取った。もう49歳である。最近のスタイルである眼鏡を掛けたスーツ姿は以前に比べるとずっとまともに見えるし、身体を俊敏に動かせないのでダンスが緩慢で、以前は MC が多かったように思うが今回は殆ど喋らなかった。20年前に観た時の曲のアレンジがどうであったか憶えていないが、おそらくより複雑で多様になっているような気がする。しかしモニターの音がやけに大きくて、途中まで結構ツラかった。ライブなんてものに足を運ぶのが数年振りなので、大音量に慣れないだけだろうと思っていたが、後日同行した友人にその話をすると彼も同じように感じていたらしく、しかも彼曰く「いつもそう」だそうな。友人は20年振りの僕と違い、何度も岡村氏のライブに足を運んでいる。何故あんなに音を大きくするのだろう。不思議だ。世の中の人々はそんなにも強い刺激に飢えているのだろうか。僕は、自分が歳を取ったからそう感じるのかとも考えたが、演奏者が同年代だし、観客もそうだ。これはシネコンで映画を観る際にも同じような事を感じるのだが、詳しく述べると長くなるので他日に譲る。
Postcolonial African Literature Article – Essays Postcolonial African Literature African literature published while in the postcolonial period by experts of African descent. General to the time between 1970 and 1960, during which occasion many African countries gained political freedom rulers are referred in by postcolonialism in Africa. Several experts publishing even, and during this time during colonial situations, found themselves as political activists and both artists, and their works resembled their issues about their countries’ political and cultural problems. Continue reading
ずっと昔、渋谷のタワーレコードだったと思うが、立ち寄ったクラシックのコーナーで村治佳織の「パストラル」が推されていた。「美少女ギタリスト」だとかそういうノリのポップが貼られていたと思う。ふうん、と思ったのみでその時はその場を通り過ぎたのだが、後からどうにも気になってその棚へ戻った。その頃の僕にとってギター曲と言えば、バッハのリュート組曲目当てで買ったジョン・ウィリアムズのアルバム一枚を聴いた事があるくらいでほぼ何も知らなかったので、楽曲としては興味の持ちようがなかったにも関わらずその CD が気になってしまったのは、村治佳織の容姿が良かったからだろうか。結局僕はそのアルバムをジャケ買いした。
部屋に戻って聴いてみると、悪くはないと思った。それから後、そう頻繁にではないけれども、時折思い出したようにこのアルバムを聴くようになった。意気込んで聴くようなものではないが、部屋の中に流しておく音楽としては適切なであるように思えたので、主にそういう用途で流した。そしてその内に、部屋を満たしておくにはアルバム一枚では足りないと思うようになり、時を遡ってデビューアルバムから順に少しずつ揃えていったのだけれど、3枚目のアルバム「シンフォニア」の「オンブラ・マイ・フ」を聴いた時にふと思い付いた。これは午睡のための音楽であると。明るい陽差しを遮った屋根の下で、涼しげな風に撫でられながら眠りに落ちる自分の姿を夢想した。沈み込むような感じではなく、自分の身体を軽くして横たわっている事が出来るような魅惑的な眠りだ。そしてその季節は五月が良かろうと思われる。まだ強すぎない陽差しに目を細め、爽やかな薫風を吸い込み、年に何度もない最良の気候の日に聴くのが良かろうと思われる。
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