DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Author: doggylife (page 22 of 193)

 鎌倉時代末の日本と元の関係は、一口でいえば緊張状態にあった。第三次の元の襲来が予想されたからである。にもかかわらず、二章で述べた東福寺の造営料船の例もあるように、北条氏や寺社は盛んに貿易船を派遣し、日本に来た元僧たちは清新な空気を日本に吹き込むなど、文物交流は盛んであった。その中心地が博多だったのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.59

 源頼朝は鎌倉に拠点を定め、鎌倉幕府をつくり、文字通り天下の覇者となった。いわゆる鎌倉期以降の博多の都市的発展(対外関係・モノの流通・文化)を考える場合、禅宗と禅寺が持つ意味を見逃すわけにはいかない。栄西の聖福寺、円爾の承天寺の建設。いずれもこの時期の博多の都市的発展を考える場合の核となる重要なできごとである。
 武家文化を培養した鎌倉禅や、公家の保護を背景に兼修禅を中核とした京都禅と比べ、博多禅は、禅宗のの初伝として、対外文化交渉の門戸にふさわしい発展ぶりをみせた。宗・元などの中国文物の日本への移入役として禅宗を位置づけるべきであり、博多の日本文化史に占める意義は大きい。博多禅は、臨済宗と茶の導入者である栄西によってスタートした。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.36

 ここで指摘しておきたいのは、筑前の商人の海外渡航が、十世紀以降急速にふえ出したことである。つまり、東アジア商圏への筑前の地場商人の参画がそれだ。博多商人の反中央、反体制の烽火はかくして上がり、現在へと続くのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.22

 狙われた円爾は謝国明に助けを求める。謝国明は宋出身で、小呂島(福岡市西区)を貿易の基地にし、日本人女性を妻に持つ博多網首。義侠の人でもあった。円爾を櫛田神社近くにあった自宅にかくまったという。一連の騒動は、双方にとって貿易の利権がどれほど大きかったか、博多がいかに重要な位置にあったかを物語っている。
 謝国明は、禅への信仰心も厚く、多くの足跡を残している。
 JR博多駅近くにある承天寺は、謝国明の援助によって円爾が建立した。円爾の恩師である宋の無準師範の径山万寿寺が火災に遭った時は、木材千枚を贈った。その五年後に承天寺が焼失。謝国明はたった一日で、仏殿など一八の建物を再建させたと伝えられる。それほどまでに禅に帰依していた理由は何か。「故国を離れて暮らす網首たちにとって、禅宗は心のよりどころだったのでしょう」と大庭康時主査はみる。しかし、それだけではない。禅という共通の文化を持つことが、宋とのつながりを強固にし、間違いなく貿易事業のうえでも大きな利益を生んだ。若き日、東シナ海の波濤を越えて博多へやってきた謝国明。文化人であり、並外れた財力を持つ貿易商人だった。後に登場する博多の豪商たちの原形をみる思いがする。
 飢饉になったある年の大晦日のこと、謝国明は、飢えた人々を承天寺の境内に集めて「そばがき」をふるまった。これが年越しそばの起源になったとも言われる。
 弘安三(一二八〇)年、八十八歳で没したと伝えられる。墓は承天寺近くにある。墓のそばに植えられた楠が巨木になったことから、「大楠様」と呼ばれるようになった。毎年八月の命日には、遺徳をしのぶ「千灯明祭」が営まれている。

読売新聞西部本社編『博多商人〜鴻臚館から現代まで〜』2004年 pp.20-21

 台湾は、中国にとって瑣末な法律問題ではない。中国人の感情を揺さぶる問題なのだ。私は、二〇〇一年に中国外交部軍控司(軍備抑制と軍縮を担当する部局)司長として武器制限交渉を担当していた沙祖康(駐ジュネーブ国連大使を経て、現在は経済社会局事務次長)に話を聞いたときのことを思い出した。話題が米中関係であり、しかも、アメリカの偵察機が中国の戦闘機と接触して海南島に強制着陸させられた直後だったにもかかわらず、驚くほど穏やかでなごやかなインタビューだった。沙司長は冗談もいえるくらい英語に堪能で、自信に満ちた人物だった。ところが、台湾が話題になると、突然語調が変わった。そばにあったコーヒー・テーブルを拳で叩いた。それは演技だったが、戦法の狙いどおり私はびっくり仰天した。すると、沙司長は声を荒らげ、こう叫んだ。「台湾を母国に復帰させるためなら、私は命を投げ出す覚悟であることを、知っておいてもらいたい!」
 中国はーー沙祖康以外の中国人もすべてーー台湾のために戦うだろうか? ここ数十年のあいだに中台の緊張がつのり、中国の侵攻の懸念が高まったときは、つねに台湾の国内政治が原因だった。一九九二年から、台湾は民主主義に移行した。その下準備をしたのは蒋介石の息子の蒋経国だったが、完全な民主化を行ったのは、蒋経国の後継者李登輝だった。一九九〇年代には台湾独立を唱える政治家が登場し、台湾人のナショナリズムに訴えて人気を集めた。李登輝は、一九九五年に初の民主的な選挙による総統に当選し、法に則った独立の明確な計画を打ち出しはしなかったが、その方向に向かうことを示唆した。李登輝は日本の植民地だったころの台湾に生まれ、日本語を流暢に話すことができて、日本の政界との結びつきも強い。いずれも中国にとっては不愉快なことだった。一九九五〜九六年、中国は本土と台湾のあいだの台湾海峡でミサイル試射を行うという威嚇行動に出た。クリントン大統領は、この脅しを重大事として、軍事解決を図らないように中国を警告するために、二個空母戦闘群を派遣した。それで双方とも引き下がった。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.304-305

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