DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Author: doggylife (page 46 of 193)

 ギャラリーでのプライマリー・プライスは、同じ種類であれば作品のサイズによります。ほかにも価格を左右する要素として「素材」と「数」があります。
 素材とは、ペインティング(油彩画、アクリル画)、ドローイング(線画、水彩画)、エディション(版画等)の違いです。制作に時間と労力を要し、よってアーティストのタブローとしての意味合いを持つペインティングは、価値がもっとも高くなります。ドローイングにも秀作は多くありますが、紙に描かれた線画や水彩画は、基本的にはペインティングより安価です。
 もっと安価なのが、複製可能なエディション作品です。アート作品は、世界にたった一つしか存在しないからこそ価値があるのが原則だからです。銅版画、リトグラフ、シルクスクリーンなど技法はさまざまです。最近では高画質デジタル印刷も版画に仲間入りし、複数製造が可能なフィギュア作品がエディションとなる場合もあります。ただし、複数とはいっても限定制作によって価値が管理されています。この限定番号のことをエディション番号と呼びます。(和田)

小山登美夫著『現代アートビジネス』アスキー新書 2008年 pp.110-111

ガラスの向こうに絶望が見える

 二週間くらい前(関東ではさらに一月前)に放映されたタモリ倶楽部の空耳アワーのコーナーで流れた曲を聴いて「これは聴いた事があるぞ!」と膝を打ち急いで書き留めた。それがこれ。

 Elsa Lunghini というフランスの歌手が歌った T’en va pas(邦題:哀しみのアダージョ)という曲で、じっくりと聴いてみれば実にふんわりと切ない佳い曲である。しかし僕はこの曲を何処で聴いたのだろうか。前述の Wikipedia にもあるように、1986年に公開された「悲しみのヴァイオリン」というフランス映画の主題歌(歌っているエリザも出演)だそうだが、僕は観た覚えがない。1987年に原田知世が大貫妙子の日本語詞により「彼と彼女のソネット」としてカバーしているが、どう考えても日本語ではなかったと思う。

 うん、やっぱり違う。他にも何人か日本でカバーしてるようだから、原曲は日本でも売れて何度もラジオから流れたのだろう。恐らくそれらを偶然耳にしていたのだ。一度聴いただけで記憶に残るとは余り思えないし。
 それにしてもこの曲のこの感じは一体何なのだろう。諦念というか、緩やかな絶望感というか。早く忘れてしまいたような、でもまだ身近に引き寄せていたいような、そんな感じ。そんな事を考えていると思い出されるのは中谷美紀が歌った「砂の果実」である。

 曲調は違うし売野雅勇が書いた歌詞のおかげで絶望感がかなり増しているが、質感が似ていると思う。これは1997年に坂本龍一と共に出したものだが、それより二ヶ月前に坂本美雨が歌う英語バージョンが先行している。

 そしてこちらは「砂の果実」の前年に出した「 Mind Circus 」という曲。

 これも似てる気がする。そう言えばこの曲を、ベストテン番組に中谷美紀と坂本龍一が出演して演奏しているのを観た覚えがある。長い髪をポニーテールにして白い服をまとい、マイクを水平に保ちつつほんの少し上を見上げるようにして歌っていた。美しい人だな、と思いながら眺めていたのを覚えている。

 さて今回の話のまとめとしては、1996年に坂本龍一が中谷美紀のプロデュースを始める際に、冒頭の「 T’en va pas 」という曲の持つ世界観があったのではないだろうか。その9年前に同曲の邦訳をしたのは坂本龍一と近しい大貫妙子であるし、その辺りからいつかやろうと温めていたのかも知れない。僕の想像でしかないが、そんな気がする。

 調べている時に、中谷美紀の全曲レビューをやってるサイトを見つけた。参考までに。

 次に第二条件として、自分の描きたいものや表現したい世界を、客観的に見る事が必要です。自分が置かれている時代や社会、歴史や文化の背景と、自分が描きたいものをすり合わせ、自分自身を批評できる能力がなければ、残念ながら、本人にとってよい絵は、本人にとってだけよい絵で終わります。
 例えばいろいろとギャラリーを見て、このギャラリーだったら自分の作品を並べたい、見せたいと判断できることも大切です。
 僕のギャラリーに来たこともなければ、どういう人がやっているのかも知らないで、もちろん、作品が展示されている空間を知りもしないで、資料だけを送ってくるアーティスト志願者もいます。そういう人は、自分の位置が見えていないのだと思います。自分が制作することだけに没頭するのではなくて、一歩退いて見てみる。作品に対してある程度の距離感が持てないと、作品を社会化することはできません。

小山登美夫著『現代アートビジネス』アスキー新書 2008年 pp.86-87

高熱の思い出

 僕の平熱は36.2度などその辺りで、割と低めである。そのせいかどうかは判らないが、熱が出にくい体質であるようだ。風邪をひいて熱を出したとしても37度前半などで、滅多な事では38度までは上がらない。そもそも風邪をひいても熱を出す事が少ない。しかしそのせいだろうと思うけど、治りにくいし、口唇ヘルペスが出来たりする。どちらかと言えば厄介な体質である。しかしそんな体質の僕が過去に一度だけ39度という大台を超えた事がある。今回はその時の話。

 あれは随分と昔、2000年にはなっていなかったと思う。金曜日の夕方に寒気を覚えたが仕事が終わらず、夜ともなればとうとう悪寒と頭痛がし始めたので帰宅し、夕食も摂らず風呂にも浸からずにそのまま布団に潜り込んだ。酷い状態だったが、明日一日寝ていればどうにかなるだろうと高を括っていた。しかし甘かった。翌朝僕は、全身の痛みと共に目を覚ました。何がどうなっているのか判らないが、体中が痛くて起き上がれないし、頭部の中心から熱を発しているようで意識も混濁しているようだった。這うようにして体温計を探し、計ってみたところ39度を越えていた。これが39度の世界か。そんな事を考えながら、数分の後に意識を失った。
 その後何度か同じ事を繰り返した。意識はぶつ切れなので時間の感覚はない。しかし窓の外から黒夢の曲が聞こえていたのを覚えている。黒夢を知っている人は想像出来ると思うが、高熱にうなされて目を覚ます度に黒夢の曲を聴かされるのである。一体何の呪いなのか。当時僕が住んでいたマンションの斜向かいに古いアパートが在り、そこには近くの新聞販売店の従業員達が住んでいた。その後にもそのアパートの一室から黒夢の曲が漏れ聞こえていたので、その日もそいつが流していたのだろう。それにしても大音量で一日中となると迷惑極まりないが、こちとら重病人である。どうする事も出来ない。(因みに、窓を開け放っていたところをみると温暖な季節だったのだろう)
 更に翌朝日曜日。夜が明けた直後のようでまだ薄暗い時間に目を覚ました。すると外から自家発電機のようなディーゼル音が聞こえてくるので、何とか身体を起こした僕は窓の外を覗いてみた。二階から見下ろす道路には誰も歩いておらず、ディーゼル音だけが聞こえてくる。暫くまっていると、全身白い衣服を身に纏った二人の女性が、蒸気のようなものを噴出している機械を載せた荷車を曳きながら歩いてきた。蒸気は消毒液の匂いがしていた。僕は「保健所の職員の方が消毒作業をされているんだな。ご苦労様だなあ」などと思いながらその光景を眺めていた。女性達はマスクのせいでくぐもった声で何やら話しながらゆっくりと歩き、やがては煙った道路の先に消えて行った。どことなく幻想的なその光景を見遣った後、起き上がっている事に疲れた僕は再び布団に潜り込んだ。
 その後も目を覚ましては寝てを繰り返して、その日の夕方には随分とマシになり、コンビニと薬局から当座を凌ぐ物を買ってきて、翌月曜日には出社したと思う。若かったせいだろうか、よくそんな事が出来たものだと思う。今だったらきっと死んでしまう。

 以上が僕が人生最高の熱を発した時の思い出話なのだが、それを数日前、柔らかな陽差しの中を散歩していた時にふいに思い出した。そして一つの疑問が頭をもたげる。あの二人の女性は実在したのだろうか。
 というのも、15年以上も前だとは言え、何処かの機関がそのような方法で消毒作業をしていたのだろうか。方法として古臭い気がするし、あの方法だと消毒されるのは道路際までである。そんな対処は有効なのだろうか。そんな事を考えたからである。そもそもあれは何の為の消毒作業だったのだろう。その前後に何かしらの感染症が蔓延していたからと今まで僕は考えていたが、そう言えばそんな話は何も聞いていない。僕が患ったのがインフルエンザだとして(結局医者にはかかっていない)、その対処にそんな作業をするものなのだろうか。「保健所 消毒液散布 白い衣服」などで検索してみたが、なにもヒットしない。
 そんな事を考えていると段々不安になってきた。今まで15年以上もその事に何の疑問も持たずに過ごしてきていたので、自分の思いつきなのに驚いた。もし、もし仮にあの光景が幻視だとすると、もしかして僕は死にかけていたのだろうか。おまけに、あの二人の女性の白ずくめの姿が本当は白装束であったような気もしてきた。今更だが、そうでない事を願う。今は元気なのだからそんな事はどうでも良いだろうとも思うが、自分が死にかけていたとは余りショックだ。春の訪れにすっかり綻んでいた気持ちが、すっかり異世界に紛れ込んだような気分だ。

 キャステリに限らず、ギャラリストにはアーティスト顔負けの個性派が揃っています。ギャラリー名のほとんどが、個人名を冠しているのも特徴です。ギャラリーとは単なるハコではなく、ギャラリストが全感覚を注いで発掘し、温めてきたアートを、アーティストと共演するライブステージです。ギャラリストは裏方でも黒子でもなく、現代アートのパフォーマーの一人なのです。(和田)

小山登美夫著『現代アートビジネス』アスキー新書 2008年 p.53

Older posts Newer posts

© 2025 DOG ON THE BEACH

Theme by Anders NorenUp ↑