DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Author: doggylife (page 49 of 193)

 アメリカのインディアナ州コロンバスは人口わずか4万4000人の小さな街だ。シカゴから車で3時間半から4時間ほどかかる田舎町だ。
 この街には建築デザインが優れた建物がたくさんあることでよく知られている。その礎を作ったのは一人の企業家だった。
 コロンバスには、カミンズというメーカーの本社がある。190カ国に拠点がある世界的なディーゼルエンジンメーカーだ。このカミンズを40年以上にわたって経営していたアーウィン・ミラーがこの街の建物のデザインを変えた人物である。
 ミラーは、経営者として人材の重要性をよくわかっていたため、「この小さな街に MIT やカルテックスのような優秀な大学の卒業生たちに来てもらうためにはどうすればいいか」と考えた。そこでミラー氏は街の建築物を変えることを考えたという。
 最初は教会だった。1942年に、フィンランド出身の著名な建築家、エリエル・サーリネンに依頼し、街の真ん中にファースト・クリスティアン・チャーチという教会を造った。次に彼は設計料を出す代わりに自分で選んだ建築家に街の学校の設計を任せることを街に提案した。

 (中略)

 こうした新しい建築物のおかげで街のイメージは一新された。しかも、学校や教育に関わる施設を見て、子どもたちがいい環境で勉強できることを知った優秀な人材がカミンズに就職するようになった。
 人を集めるにはまず環境から。それも、次世代を担う子どもたちが勉強する環境にお金と手間暇をかけるべきだ。そのとき、デザインは重要な働きをする。環境を目に見えるかたちで一新できるのはデザインだからだ。

蓑豊著『超〈集客力〉革命』角川oneテーマ21 2012年 pp.189-191

川床カッフェー

art_20131111ab

 左が2001年に上洛した折、詳しくは思い出せないが町屋が寄り集まった区域の掲示板に貼ってあったイベントのポスターなのだが、使っている写真がとても気に入って写真にまで撮ってしまった。一体何の写真なのか気になってはいたのだけれど、何の情報も得られないままで、いつしかその写真の事は忘れ去っていた。そして右は、11年後の去年末に再び上洛した折、河原町の商業ビルの入口の柱に、別なイベントのポスターとして貼ってあった。再び興味は再燃したが、やはり何の手がかりも見つけられなかった。

art_20131111_c

 そして今年に入って Tumblr のダッシュボードに前述のポスター写真の原型であろう上記の写真画像が流れてきたのだ。ここで逢ったが百年目、まさに狂喜乱舞した僕であるが、流れて来たのは写真だけで、その他には何の情報も得られなかった。

 全体の雰囲気からして、明治大正期のカッフェーであるように見える。客の男は40代から50代くらいの銀行員ではないかと想像する。二人の女給はとても若そうで、着物や髪飾りが派手なところを見ると舞子だろうか。そしてその二人の間に白い欄干が見える。揚屋でこのような欄干を使う事はないと思うので、もっと新しい施設であろう。仮設のものであるかも知れない。そうすると川床であろうか。そして更にその向こうに見える灯りが賑やかで、河床から見た川向こうの灯りだとすると近すぎるので、隣接した川床の灯りを映しているのだと想像する。右側の影になった方の女給の左手には指輪が光り、金属製の盆の上に乗せられているのはずんぐりとした酒瓶。麦酒であろうか。見ていると色々と気になってくるものである。

 長年に渡り繰り返し使われている写真のようなので、恐らく有名なものであるのだろう。僕の当て推量に間違いがないとすれば、その当時のカッフェーの様子を此処まで濃密に映した資料を他に見た事がない。もしかしたら現代になってセットで撮影されたものかも知れないが、それならそれで凄いと思う。何だろうか、この写真は。もの凄く気になる。というか僕が其処に居たい。

 追記 20131115:Patron of Nightclub Uruwashi having his cigarette lit by geisha というのがこの写真のタイトルであるようだ。撮影者は Eliot Elisofon という、1911年生まれの米国のフォト・ジャーナリスト。1962年3月26日にライフ紙に発表されたものであるようだ。

今どきの終活

hobby_20131108

 暫く前の話であるが、地元の街のアーケード商店街を歩いてると左写真のようなスタンド看板が目に入った。黒板に書き殴られた様子がカジュアルなわりには「遺言」という言葉が重くて非常にシュールである。これは実は、行政書士の事務所兼店舗の前に掲げられたもので、客を呼び込む為のようだ。詳しくは知らないのだが、行政書士には遺言書の作成を支援する業務があるようで、その為このような看板を掲げる事もなんら不思議ではない。しかし、その事を知らない人は何事かと思うだろう。おまけに、本来は「飛び込みでいらしても書き方をお教えします」という意味であるはずが、変に簡略化して言い切り型の言葉「飛び込み OK!!」で書いてしまっているので、左側の「遺言」という言葉が妙に影響して「もしかして、飛び込み自殺する際の遺言についても相談を受け付けてくれるのか」と思わないでもない。遺言を残すという大事な行為を支援するのだから、ニュアンス的な事にもう少し気を遣った方が良かったのではなかろうか。ついでに書いてしまうと、高いのか廉いのか判らないが「3000円」という金額がいささかポップな印象を与える。何というか、今では余り見かけなくなったが「明るい家族計画」と似通ったセンスを感じる看板であった。

 日本では学芸員をキュレーターを呼ぶことがあるが本来の意味からはズレている。欧米でキュレーターと名乗れるのは、美術館の「部長」クラスだけ。キュレーターとは部門のトップであり、展覧会の企画から予算管理までを任されるプロデューサーを指す。
 私の場合、シカゴ美術館で東洋部長を務めたときがキュレーターとしての「メジャーリーグ入り」だった。キュレーターの下にはアソシエイト、アシスタントがいる。そして、さらにその下にテクニシャンと呼ばれる研究員がいる。日本の美術館の学芸員のほとんどはテクニシャンにあたる。学芸員が美術館経営に関わることがないのはそのためだ。

蓑豊著『超〈集客力〉革命』角川oneテーマ21 2012年 pp.92-93

晩秋の小径

 現在居候している実家を父が建てる前は、少し離れた場所に在る古い一軒家を借りて家族で住んでいた。で、その数年前にはそのすぐ近くの更に古い一軒家に長い間住んでいたのだけれど、平成三年の台風17号・19号により屋根が半壊してしまったので、急遽前述の借家を父が何処からともなく借りてきた。その二つの一軒家は同じ道沿いに在ったので引っ越しは容易であったが、近所の風景が変わり映えしないので、住む場所(世界)を変えるという昂揚感は薄かったように思う。前の家は袋小路の行き止まりの手前に在り、後の家はその袋小路の入口に在った。
 その一帯は、その縦横に走る道の幅や曲がり具合からして、車を通す事を念頭に置く事すら考えないくらいに古くからある民家が寄り集まった場所のようで、敷地の広さも、家屋が建てられた年代も様々な家々が立ち並んでいた。話を戻すと、その袋小路へ繋がる道と、クネクネと曲がる小径(軽自動車がようやく通れるくらい)が交わるT字路の角地に僕の家は建てられていたので、二階の窓からは、視界は狭いがわりと良い景色を眺める事が出来た。

 そして、僕の家の道向こうの古い人家には、庭に柿の古木が在り、その枝々は小径の半分くらいを覆っていた。柿の木と言えば、夏には黒くて毛の長い毛虫がよく幹を這っており、刺されるともの凄く痛い。「ヂカヂカヂカッ」と擬態語とも擬音語とも言えないが、そういう音で表現出来るくらいにその痛みに特徴がある。もうとにかく痛い。秋も深まれば実を結ぶが、誰も収穫しないところを見るとどうやら食べられない種類のようだし、晩秋ともなれば熟れすぎた実が地面に落ち潰れ、辺りに甘ったるい腐臭を撒き散らす。良いところなど一つもないので僕は柿の木が嫌いであったのだが、何故かしら今でも、晩秋の頃の肌寒い空気の中に満ちるその匂いや、葉も落ちて変貌した黒く湿っぽい樹木の立ち姿を思い出す。そして今ではもう、それが嫌な思いとしては蘇ってこないのだ。何故だろうか。子供の頃から成人するまで毎年のように嗅ぎ、見ていたので擦り込まれてしまっているのだろうか。いつの時も晩秋と聞いて思い出すのはそれなのだ。

 ★

 場所変わって、東京で住んでいたアパートの前には子育て地蔵尊が在り、その脇の小径を歩いて行くと右側の人家の庭にも柿の木が在った。そしてこれもブロック塀を越え枝が道路まで延びていた。風情としては良いのだけれど、道路側に伸びた枝の手入れをしないというのは、何かそういうスタイルが世の中に在るのだろうか。その柿の木も古かったが小振りなもので、結ぶ実も多くはなかった。しかしやはり、熟れすぎた実はアスファルトの上に落ち、そのままにしてあった。たぶんその頃からだろう、そういう始末の仕方もその季節の記憶となると、良いものであるのかも知れないと思い始めたのは。少なくとも、橙色を通り越して朱色となった柿の実を、灰色の寒空を背景に見上げるのは良いものであった。
 しかし、僕が東京を去る一年ほど前にその人家は建て替えられ、柿の木も切り倒された。

 ★

 少し気になったので今日、僕が以前に住んでいた家を自転車を漕いで見に行った。その場所へと続く道の入口を見落としてしまうくらいに一帯は様変わりしており、僕が住んでいた家も含め、おおよそ半分くらいの人家が建て替えられていた。柿の木の在った家はかろうじてそのままであったが、柿の木は何処にも見当たらなかった。
 こうして思い出の場所は別なものに差し替えられ、思い出もやがて薄れてしまう。そしてその思い出を持つ人間が死んでしまえば、それはもう存在しなかったのと同じ事になってしまうのだ。

 ★

 2007年に、その家に住んでいた当時の事を記事に書いているのを思い出した。よく見たら台風の番号を間違えている。「脳幹を巡る音楽

Older posts Newer posts

© 2025 DOG ON THE BEACH

Theme by Anders NorenUp ↑