斎宮の女御(六条の御息所の娘)が、秋雨の降るころ、二条院に里下がりした。源氏は御息所の思い出を語りながら、春秋の優劣論を楽しむ。女御は秋を好むと答え、のち「秋好中宮」と呼ばれるようになった。
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』角川文庫 2001年 p.179
斎宮の女御(六条の御息所の娘)が、秋雨の降るころ、二条院に里下がりした。源氏は御息所の思い出を語りながら、春秋の優劣論を楽しむ。女御は秋を好むと答え、のち「秋好中宮」と呼ばれるようになった。
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』角川文庫 2001年 p.179
長年飲酒生活を送っていると、ゆったりとだが常用する酒の種類や銘柄が変遷していくようである。
以前関東に住んでいた頃の話をすると、昔の事だから朧気にしか憶えていないが、ジンばかり飲んでいた事もあったし、ラムばかり飲んでいた事もあったし、ウィスキーやワインや日本酒がそれに代わっていた事もあった。当時のこの酒の種類の変遷にはどういう理由があったのか、今ではそういう飲み方をしないので判然としないが、何かしらおいしい酒を飲む機会があって、その流れで飲み続けていたのではないかと思う。
そして、そのような「ジン期」や「日本酒期」等の中で好みの銘柄が出て来るのだが、その選択肢の殆どは住んでいた地域に在るディスカウントショップの品揃えにほぼ限られる。他所の町まで出かけて買い求めて持ち帰るのは面倒だし、通販で買うにしてもそれは希な事であった。ジンで言えばボンベイサファイアやタンカレーがそれで、日本酒だと酔鯨や銀盤や立山が好みであった。
ただ、これがまた別な変遷していくのである。それがどのような経緯で変化していくのかと言えば、あ、先に但し書きをしておくと、この変化は洋酒に関しては経験が無い。洋酒はどの銘柄をいつ飲んでも変わらない印象を受ける。時期によって変化するように思えるのは日本酒や焼酎などである。話を戻して、例えば「酔鯨」。ある時期にはこれほどに清涼な飲み口の酒はないと思いながらそれこそ鯨飲していたのだが、自分の中のブームが過ぎて、今度は他の種類の酒を飲み続けて一年以上が経った頃、再び飲んでみると今度は酒粕臭い気がして余り好きではなかった、というような経験が在る。この味覚の変化は何が原因なのか。その時期の自分の体調が違うのか、それともその年の酒の仕上がりが違うのか。要因は幾らでも在りそうだが、とにかく気に入らないというか違和感が有るので、その銘柄に見切りを付けて違う銘柄を試していく事になる。その次に飲み続けた日本酒が「銀盤」であったと思う。実際にはもっと色々あったかも知れないが、もう憶えていない。
さて、ここからは現在の話である。関東から九州へ戻って生活する環境が大きく変わったせいか、酒の好みも結構変わったと思う。関東に住んでいる頃はマンション住まいで仕事は内勤だったので、外気に触れる機会が少なかった。しかし九州に戻ると不完全な空調の一軒家に暮らし、仕事で外に出ることも多いので外気に触れる機会が多い。むしろ外気の中で暮らしているという感覚だ。そういう住環境の変化のせいだと思うのだけれど、季節の移り変わりにに伴って飲む酒の種類が入れ替わるようになり、飲み方も変えるようになった。
その年の天候に因っては多少前後したりもするが、大まかな流れとしてはこんな感じである。基本は通年で焼酎を飲んでいる。これは手に入れ易いというのと、廉価であるからである。今はお金が無いので廉いに越した事はない。芋米麦黒糖を入れ替えているのは、それぞれの季節にはそれらが合っていると何となく感じているからに過ぎない。そしてそれ以外の種類の酒をちょいちょい飲んでみたりしている。日本酒やワインは好きだが量を飲んでしまうので、金は掛かるし糖質の摂取も控えたいので常飲はしないようにしている。暑さ寒さが厳しい折に飲もうとは思わないが、春秋の落ち着いた気候の中ではやはり飲みたくなってしまう。それから真夏は泡盛やラムを飲みたくなり、どうやっても暑いのでソーダ割りの酒や麦酒を飲みたくなる。何故かしらその方が気分が落ち着く感じもする。但し飲食店で飲む場合にはこの限りではない。空調の効いた空間の中では季節感は関係ない。どちらかと言えば料理に合わせる感じだろうか。
そう言えば日本酒の味の好みも関東から九州へ移動するタイミングで変わった。関東に住まう頃は北陸の辛口の酒が好きだったが、今では九州の甘口の酒が好きである。何故このように変化したのか、それは加齢の影響かも知れないし気候の影響かも知れない。やはりその土地で作られた物が一番おいしく感じられるのではないだろうかとは思う。沖縄で飲んだ泡盛はとてもおいしく感じられたし。しかしそう想像するだけでよくは判らない。
話はもう少し続いて芋焼酎。関東にいる頃は白岳以外に選択肢はないので、仕方なく前倒しで芋焼酎に手を出した。当然海童を試した訳だが、これも何だか違う感じ。しっくり来ないのである。全然ダメだという事ではないし飲み続ければ気にならなくなるかも知れないと思ったが、何だか落ち着かないのである。さて困った。が、ただ困っていてもどうにもならないので他の銘柄を試してみる事にした。
最初に試したのは白霧島である。以前に水割りで飲んだ事があり「すっきりと飲みやすい」という印象を持っていた。湯で割って飲んでみてもその印象は変わらず悪くはなかったので、暫く飲み続けた。これで良いんじゃないかと思っていたが、だんだんと物足りなさを感じるようになった。では違う酒造会社の酒を試してみようと黒伊佐錦を飲んでみた。これは以前飲んだときにも感じたが、何処かしら粉っぽさを感じる口当たりが気になってしまうし味が地味だ。ならば木挽はどうかと試したが、どうもこれを最適だとする理由を見つけられない。
取りあえず白霧島に戻ったが、やはり他の銘柄を試してみたくなる。どうもシックリこないのだ。そう、探しているのは「シックリ」感だ。そこで思い切って黒霧島を試した。どうして思い切る必要があったのかと言うと、昔飲んだ時に芋の臭みが気になってあまり好きではなかったからである。しかし今回飲んだらそのような印象は受けず、白霧島に比べれば味は濃く輪郭がはっきりしていて寧ろ丁度良かった。白霧島と黒霧島を行きつ戻りつして飲み比べてみると、これが不思議なもので、それまで悪くはないと思っていた白霧島は味が曖昧に過ぎる感じがして来て、これは少なくとも今の自分には適していないと判断した。判断したとか偉そうに書いたが、要は「どうも違う」という事である。
さて、気に入ったのなら黒霧島を飲み続ければ良いだけの話なんだが、欲が出た。もうちょっと何かあるんじゃないかと。さすがに数多存在する芋焼酎を全て検証する気は毛頭ないが、何処のスーパーマーケットやコンビニエンスストアにも置いていそうな銘柄だけは試しておきたいと考えたのだ。そう、残るは白波である。実を言えば白波は昔に飲んだ事があるようなないような、それくらいに遠い存在であった。なのでこれを機会にこの酒を知るのも良いと思ったのだ。まずさつま白波を試したところ、これまで試した中では一番特徴の有る芋焼酎であった。臭みとは違った芋らしさというか、これが日本酒やワインであればフルーティと称したであろう甘みがあり、それが濃厚なのだ。これはこれで良い。良いが常飲するのはちと味が鮮やか過ぎるように感じた。そこで次に黒白波を試した。白霧島から黒霧島へと飲み換えた時のような違いを予想していたが、かなり違った。濃厚な甘味は薄れ、代わりに甘味がすっきりと際立つ感じである。これは良いかも知れない。結果的に黒霧島と似た印象を持ったが、やはり違いはある。さてどちらにしようかと飲み比べてみると、黒霧島はいささか地味で、黒白波の方が華やかさを感じるようだ。迷ったが、黒白波がより現在の自分に適していると判断した。決定。今季に常飲する芋焼酎は「黒白波」に決めた。
こんなにも手間を掛けて常用する酒を選ぶという行為を今までした事はなく、珍しいので留めておこうとこれを書いている訳だが、果たして長い文章になってしまった。しかもようやく銘柄を決めたは良いが、私的な芋焼酎の季節はもうすぐ終わるし、次の冬にまた黒白波を飲んでも気に入らないかも知れない。何だか非常に無駄な事していたような、そんな気がしている。
よろづのこと、来し方行く末思ひ続け給ふに、悲しきこといとさまざまなり
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 源氏物語』角川文庫 2001年 p.128
浅草オペラの熱狂的なファンは文なしの若者がほとんどだったが、彼らを指す特別の言葉が生まれた。「ペラゴロ」という呼び方である。語源については諸説あって、最初の「ペラ」が「オペラ」から来ている点では意見が一致しているものの、後半の「ゴロ」については、「ジゴロ」の略だという説もあれば、「ゴロツキ」の意味だという人もいる。いずれにしても、「ペラゴロ」連中は公園のあたりにたむろし、夜な夜な劇場に通いつめ、贔屓の歌手には金も貰わずにさくらの役をつとめて拍手喝采を送り、徒党を組んでは、単に歌い手を熱狂的に応援するばかりか、グループ同士で張り合い、時は喧嘩になることさえあったらしい。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.370
銀座の商人が、畏れ多くも天皇の宸襟を悩ませたという事件もあった。明治二十二年、博覧会の開会式に臨席されるために上野に行幸の途次、天皇はとある銀座の店の看板に目を止められた。読めない文字があったからである。店主の名前ははっきりわかるが、商品の名前が読めない。侍従を遣わして御下問になったところ、戻ってきた侍従が報告するには、問題の品物はカバンであるとう。店主は「革」と「包」とを組み合わせ、これに、物を入れる包みという意味の中国語、「きゃばん」の音を当てたのである。陛下じきじきの御下問に恐縮した店主は、以後、看板にカナを振ることにした。店は有名になり、同時に「鞄」という字も日本語として定着した。件の看板は、残念なことに震災で焼けてしまった。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 p.274
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